「現代ナントカ」

保坂和志の文章(「いまや忘れられつつある"現代"」http://web.soshisha.com/archives/world/2007_0329.php)に刺激されて、「現代」について少し考えてみる。
●「現代美術」という時の「現代」には、二つの異なる意味が重ねられているように思う。一つは、まさに我々が生きている現在という意味で、それは「近代」という概念ではカバーし切れないものを含む、近代以後としてある。それはだから、近代批判でもあろう。しかしもう一つは、芸術において「現代」が問題にされるようになったのが「近代」であるということがある。芸術作品が、常に現代的であることを要請されるようになる時代こそが近代であり、それはつまり、過去のものを否定的な媒介としてそれを乗り越え、より普遍的なものへと近づいてゆくために、芸術は常に進歩するべきだし、最先端を目指すべきだという考えでもあろう。つまり、常に「現代的」であることが要請される芸術こそが「近代芸術」である。近代とは、常に近代批判(自己批判)を要請するようなプログラムであり、だから、近代批判としての「現代」であるような「現代美術」は「近代芸術」の範疇にある。そこには、批判(否定や対立)を通じてより高次の理念(普遍)へと近づいてゆこうとする弁証法的運動があり、その運動は「普遍」が信じられているからこそ可能になる。
ところで、西洋芸術が非西洋芸術(「芸術」という概念がそもそも西洋のものなのだが)に対してもつ優位性は、実際に政治的、軍事的、経済的に西洋が世界を征服したという事実以外にも、その圧倒的な体系性と汎用性にあると思われる。つまり、西洋芸術の理論によって、非西洋芸術もだいたいのところは記述できる(勿論、完璧にではない、それによって「魂」が抜かれてしまうことは避けられないだろう)という事実が、西洋芸術に基準(メジャー)としての地位を確保させていた。その体系性、汎用性によって、非西洋芸術を呑み込む(植民地として受け入れる=搾取する)ことが出来るからこそ(西洋芸術を学べばそれ以外にもだいたい対応できるという経済性があるからこそ)、強い。そしてその体系性や汎用性を可能にしたものが「普遍」という概念(信仰)だと思われる。非西洋においては「普遍」という概念がなかったから、体系性や汎用性ははじめから問題ではなかった。(勿論、それぞれのローカルな体系はあるのだが。)
だから例えば、現代音楽が、西洋中心主義的なクラシック音楽を批判したとしても、その批判という運動そのものが、西洋音楽の範疇にあるものと言える。「現代美術」とか「現代音楽」とかの「現代」が成立するのは、それが「西洋」の「近代」が作動していることによるのだと思われる。
(勿論、これは簡単に割り切れることではない。例えば、ピカソがアフリカ彫刻に強いインパクトを受けて自らの作品をつくるということが、アフリカ文化に対する西洋人の植民地的な侵略(搾取)なのか、それとも、ピカソが非西洋的なものに感応し、自身をそれに向かって開くことの出来る感性をもっていたということなのか、簡単には決定できない。というか、それはどちらも正しいのだと思う。)
●現在において、「現代」が成立しないのだとすれば、それは「近代」というプログラムがもはや作動しなくなったということを意味するように思われる。それは「普遍(理念)」の失効、つまり「正しさ」が意味をもたなくなったということだと思う。これはつまり、より完璧に「神が死んだ」ということではないだろうか。我々は今後、神(普遍)の成立しない世界を生きなくてはならないのではないか。これが間違っていないとすれば、モダンとかポストモダンとか言っている場合ではないように思う。例えば「私」は、普遍なしで「私」を支えることが、どのようにすれば出来るのか。このことは、「現代」の成立しなくなった現在の芸術において、とてもリアルな問題としてあるようにぼくには思える。(「汝の意思の格率が、常に同時に普遍的立法の原理となるように行動せよ」というカントよりも、「汝の欲望というリアルに従え(譲歩するな)」というラカンの方が、この現在においてよりリアルな(切実な)の倫理であるように思う。)
普遍という概念は(「私」を超えた大きさをもつ)「正しさ」を(あるいは「正しさ」が共有し得るものであることを)保証するものであろう。正しさは、「正しい」ということの超越性おいて強い権威を(あるいは「転移」を)生じせさ、時に(個々の「私(個物)」を押しつぶす)絶大な暴力を生む。しかし同時に、権威や暴力に対する「抵抗」の基盤を支える超越性もまた「正しさ」によって支えられるだろう。「近代」が持っていたこのような苛烈な毒と薬とは、もはや我々の手のなかからは失われているのではないか。そこでは、暴力はたんなる暴力であり、それに対する抵抗は、たんなる個人的な事情(利害)による抵抗ということになってしまうのではないだろうか。(そして、「正しさ」を欠いた転移は、べったりとした愛情にのみ支えられるから、より不安定で、どろどろとしたものになるだろう。)
●話が飛躍し過ぎているので、少し具体的な話を考えたい。「現代ナントカ」というのは、常に最先端であることが価値とされる。例えば以前は、構造主義とかフーコーとかドゥルーズとかは、「現代思想の最先端」みたいな売り文句で紹介された。(もはや現象学構造主義によって完全に乗り越えられた、とかそういう話。)しかし現在では、思想や哲学なんかの本では「最先端」という売り文句をみることがあまりない。(○○から××へ、という考え方そのものが意味をもたなくなっている。)あるいは、六十年代のモダンジャズや七十年代のロックなどは、常に新しいものが古い価値を書き換える(風景を塗り替える)衝撃をともなって生み出された。(いや、実際には知らないけど、そういうことになっている。)つまり、新しさとは進化であり、より良いものへと向かっていることが信じられた。(それが「個人的」なものではなく「歴史的」なものであることが信じられた。例えば、「バップ」から「モード」への変化は、たんに新たなスタイルが一つ付け加えられたのではなく、演奏の自由度がより増したというような、価値としての進化があると信じられた。そこで、でも俺は「バップ」の方が好きだった、という判断は近代主義においては「反動的」だと(あるいは「趣味的だ」と)批判される。それらが異なるスタイルとして同格に併置されるのは、だからポストモダン以降ということになる。)現在も、変化がないわけではない。というか、むしろ変化の速度はより早くなっている。しかしそれはたんなるモードの変化であり、せいぜいスタイルの洗練か、技術の進歩による解像度の増加くらいの意味しかもたない。いや、新しいものは日々生まれているのはずなのだが、それは、今ある価値体系に追加されるのみで、新たな価値体系として古いものを統合することなく、たんにジャンルやスタイルを細分化させる。(しかし個人的には、○○を知ってしまった以上、もう後戻りは出来ない、ということがあり得る。だがそれを、共有化できる「歴史」として記述するのは困難だろう。)しかしこれは、必ずしも「悪い」ことというわけではないだろう。
(それとは別にテクノロジーは限りなく進化しつづけて世界の風景を塗り替える。もはや、インターネットや携帯電話のない世界は想像することさえ難しい。それはいわば、理性も感性も欠いた悟性のみがとめどなく暴走しているようなものだろう。)
●現代美術が滅んだのはおそらく、八十年代はじめのニューエクスプレッショニズム(ニューペインティング)の流行の時期であろう。それは、近代以降の美術史において、言説(批評や正しさ)に対して市場が勝利した最初の例だと思われる。それまでは、新しいスタイルは、それ以前のものを批判し乗り越えることによって(本当に乗り越えられたかどうかはともかく、何かしらそれを正当化する「言い訳=言説」があった上で)はじめて価値として(美術史的に、美術の「専門家」たちの集団によって)承認された。しかし、ニューエクスプレッショニズムの台頭は、そのような「正しさ」抜きに、流行としてあらわれ(というか仕組まれ)、それが強引に承認されてしまった。それは、その作品が「普遍的」であり得るかというような裁判の過程がすっとばされて、いきなり「売れる」という既成事実として認められてしまったようなものだ。それは、美術の価値が普遍性への繋がりによって保証されるのではなく、それとは無関係な「市場の動向」によって保証されるものになるということだ。しかしそれには理由が無いわけではない。それ以前の「現代美術」が、その「正しさ」をめぐる判定が、あまりにもストイックになり、秘教的になり、硬直化し、教条主義へと陥ってしまっていたことに、人々がいいかげんうんざりしてしまったという事実がある。
作品が普遍性への志向をもたなくなり、正しさに支えられる必要がなくなれば、正しさを正当化するための言説(批評)の地位は著しく低下する。ある時期以降、言説は、自らの「正しさ」への自己批判を(あくまで「正しさ」の名において)述べるようになる。ロゴス中心主義を批判し、西洋中心主義を批判し、哲学の体系性を批判し、近代芸術を批判し、自らの価値の相対性を言い立てる「現代」思想は、そこで言われることが「正しい」ことによって正当化される。「正しさ(普遍)」への要請によって「正しさ(普遍)」が批判される。正しさへの批判が、正しさによって支えられる以上(例えば「脱構築は正義である」というような)、「現代思想」は近代的なものに属する。しかし「正しさ」を根拠とする「正しさ」への批判が「正しさ」を不可能にする時、近代の延長としての「現代」は終わり、「現代」が忘れらた現在へと漂い出すだろう。(言説から「正しさ」への緊張が失われると、それはほとんど「効果」に還元されてしまう。つまり、ぶっちゃけどれだけ「動員」できるの、っていう話になってしまう。)
●例えば、モーツァルトやレオナルドの作品を、人々がなんの屈託も抵抗もなく、「いいものはいい」と言えたり「素直に感動した」などと言えたりするのは、「正しさ」によって「正しさ」が批判され得る「現代」の緊張を、人々がすっかり忘れてしまっているからだ。(余談だが、レオナルドの『受胎告知』は、そんなにありがたがる程に作品としてよいものではないと、ぼくは思う。しかしこのぼくの価値判断は、どの程度「普遍性」に負っているのだろうか?)そこには、普遍性への志向を欠いた卑小な「私」の(その場その場での)「感情(きもち)」の粒だちのみが蔓延する。それは決して美しい光景ではないかもしれない。しかし、そこではじめて人は、「正しさ」という権威を抜きにして(権威を保証する他者の顔色をうががうことを抜きにして)「作品(芸術)」と向き合えるのかもしれないのだ。それば実は非常に厳しい場所で、そこでは、一人一人が作品から感じ取るものの「質」や「強さ」こそが、他に何の支えも言い訳も抜きにして、自分自身にとっての価値基準のみに支えられて、誤摩化し難くシビアに問われるようになる、とも言えるのではないだろうか。ただ、人が(自分が)本当にそのような場所に耐えられるのかどうかについては、確信がない。
●ちょっと別の話。柔道の大会で、世界選手権への出場権は、大会の優勝者に与えられるのではなく、その大会をみていた専門家の判断によってなされるそうだ。つまり、必ずしも優勝者が選ばれるわけではない。この選考のあり方に、人は不透明さや、フェアではないという感情を覚える。しかし、個々の試合において必ずしも実力で勝る者が勝つとは限らない。本当の意味で今誰が強いのか(状態が良いのか)という微妙な判定は、どうしたって専門家にしか分らないところがある。にも関わらず、専門家の判定を我々は完全に「信頼する」ことができない。一応、専門家の意見は尊重するが、実際のところは「専門家っていってもどうだかねぇ」とどこか不信を払拭できない。(専門家といっても「諸事情」に支配されていて、その判断が、純粋に実力のみによってなされるわけではないことを、我々は知っている。)それは、現在の社会において専門家が与えられている「権威」(と責任)が著しく失墜していることを意味するだろう。専門家にしか出来ない判断の「正しさ」に賭けるよりも、試合での勝敗という誰からも文句のでない、はっきりと公平に見える(半ば偶然でもあるかもしれない)「結果」で決めた方がすっきりすると感じている。(そしてその結果がダメでも、それはそれで仕方がない。)そしてその方が「専門家」も、自らの判断の正しさに対しての「責任」を負わずにすむので楽であろう。普遍的な正しさというものの「権威」の失墜は、こういう場面にもあらわれているように思った。
●今日、夕方の六時前くらいに停電があった。部屋にいたのだが、バッテリーで動いているノートパソコン以外の灯りが突然消えて暗くなった。外へ出てみると、近所じゅうの灯りが街灯まで含めてみんな消えていた。一人暮らしをはじめて十八年くらいになるけど、停電なんてはじめてだった。ほんの五分もたたずに復旧したけど、原因は何だったのだろうか。