アルノー・デプレシャン『キングス&クイーン』

●渋谷のシネカノン試写室で、アルノー・デプレシャンキングス&クイーン』(http://www.kingsqueen.com/square/)。良くも悪くも、隅から隅までぎっしりとデプレシャンが詰まった映画で、とにかく面白かった。もともとデプレシャンは、無数の死体を切り刻んで、その部分を繋ぎ合わせた歪なモンスターのような映画をつくる作家だと思うのだが、それでも、例えば『エスター・カーン』なら、時代物で文芸物のコスチュームプレイという雰囲気が全体に一つのトーンを与えていたし、『そしてぼくは恋をする』のような、あからさまに分析的なフィルムでも、大学周辺にいる人物たちの青春群像のような外枠があったし、それぞれの人物の輪郭は割合はっきりしていたのだ。つまり、あらかじめその作品が扱う範囲や主題が限定されていて、その限定のなかで、主題の順列組み合わせ的な展開が徹底して思考されている、というようなフィルムだった。しかし、『キングス&クイーン』には、そのような外から映画のフォルムを調整する枠組みのようなものは存在せず、様々な要素が雑多にがちゃがちゃと入り込んでいて、それを束ねているのはただ二人の登場人物の同一性のみであるようにみえる。人物の同一性といっても、この二人の人物には明確な輪郭は存在せず、ただ、人物を演じている俳優の見かけ上の同一性によって支えられているだけで、その人物がその人物であるという特性のようなものが与えられてはいないように思う。この映画の外枠があるとすれば、おそらくそれは「調子の異なる二本の線がある」ということだけだろう。しかしこの二本の線にしても、はっきりと異なる調子に色分けされてはいなくて、頻繁に調子を変化させ、ところどころ途切れたりもする。
●この映画の頻繁な(そして唐突な)調子の変化は、作品としてはほとんど破綻しているという印象さえ感じられるほどだ。同じ俳優によって演じられているという目印がなければ、シーンごとに別の映画があらわれているようにみえるのではないだろうか。二本の線と書いたけど、それはあまりに途切れ途切れで、「線」ですらないのかもしれない。以前のデプレシャンの映画ならば、いくつかの主題の順列組み合わせ的展開という意味で、はっきりと「線」といえる連続性が保証されていたのだが、この映画では、シーンごとに、ことなる主題、ことなる感情が、流れを無視するかのような唐突さで浮上してくる。編集という意味でもこの映画は徹底して切り刻まれていて、例えば、ノラを演じるエマニュエル・ドゥヴォスが、ふいに感情が高まって、嗚咽をもらしたりするシーンが頻繁にあるのだけど、いかに唐突な感情の変化があらわれたとしても、それが「生身」の人間において現れる時(俳優がそれを演じようとする時)、平静な状態から嗚咽へと至る中間地帯を通る他ないはずなのだ。つまりそれは、速度は速いが連続的な変化であるのだ。しかしここでデプレシャンは、ジャンプカットのようにして、その中間地帯を切ってしまうのだ。このような「切り方」は(トリュフォーにおいてしばしばそうであるように)、現実的なものごとの変化の段取りよりも、映画のリズムを優先させるために行われているわけではなく、あくまで唐突な変化による非連続性を際立たせるためのものだと思う。このことによって、エマニュエル・ドゥヴォスの演じる女性ににわかに、いくつもの側面に分裂した、モンスターめいた表情が与えられている。
とにかくこの映画には、様々な切断の線がはしっている。二人の主人公の、一方の人生からもう一人の人生へとジャンプし、悲劇的な調子は喜劇的な調子に唐突に接続され、頻繁に舞台が移動し、新たな登場人物がほとんど説明抜きに次々と物語に介入し、展開は折れ曲がり、きれぎれの回想が挿入され、登場人物の印象はあらたなエピソードがくけ加えられるたびにころころ変化する。唐突な切断、あるいは、あらたな要素の不意の導入は、(例え、「私」にはそれがみえないために「唐突」だとしか思えないにしても)現実においては必ず存在するはずの段取りや徴候をすっとばしてしまうため、個々の要素はえてして薄っぺらであり、いかにもな「現代的問題」のパッチワークのようなものに見えてしまいかねない危険もあるだろう。(例えば、デプレシャンの映画の中心的な主題の一つであろう、信頼している他者からの不意の裏切りや悪意の露呈は、この映画ではあまりに唐突に訪れるため、それほど重要な効果は得られていないように思う。と言うか、様々な要素のなかの一つに格下げされている。)しかし、バラバラに切断されているようにみえる個々の要素が、思ってもみなかったようなところで繋がったり、あるいは、繋がらないまま、二時間半という時間の持続のなかで次々に畳み掛けるように蓄積されてゆくことで、全体として、不思議な厚みが獲得されているように感じられる。この「厚み」は、おそらくいわゆる「映画的なもの」とは別のものであるだろう。
●デプレシャンが徹底して避けていることの一つに「断言する」ということがあると思う。デプレシャンは、「断言」を避けるためにこそ、様々な手を使い、バリエーションを展開し、言い訳を考え、深読みを誘うような(わざとらしい)細部をあちこちに仕込む。だから、デプレシャンの映画の個々のシーンは決して映画として「強い」ものではない。たった一つのショットで全てを言い尽くし、人々を納得させてしまうような決定的なショットというものほどデプレシャンから遠いものはない。人々の言葉を奪うような強いショット、強いシーンがあってはならなくて、常に、人々から途切れることのない無駄なお喋りを誘い出すことこそが重要とされている。一つ一つはたいした意味のない無駄なお喋りの、際限のない折り重なりこそがデプレシャンにとって真実であり、人生の厚みであるのだ。(それは決して、個々のショット、個々のシーンの質が低いということではない。例えばこの映画のフレーミングは高度に洗練されていて、シネマスコープというきわめて不自然な、フレームそのものを常に意識させてしまうようなフレームサイズで撮影されながら、観ている間じゅうほとんど、シネマスコープであることを意識させない?街路樹から車道へ移動して、エマニュエル・ドゥヴスの乗っている車を捉えるファーストショットからして、シネマスコープでなければ出せないような空間の広がりを捉えつつ、しかしフレームそのものは意識させない、という素晴らしさなのだった。)
●この映画は確かに、至るところに切断の線がはしり、唐突で連続性の乏しい細部の寄せ集めからなる、死体を切り刻んだ上で縫い合わせたような歪んだフィルムであろう。しかしこの映画で本当に面白いのは、その乖離=解離の方にあるのではなく、それらの全てを最終的にエマニュエル・ドゥウォスが演じるノラという女性が引き受けるところにあると思う。これらの雑多なもの、これらの矛盾、これらの取り留めのなさ、これらの下らなさ、これらの混乱、の全てを、「私」が「私」として引き受ける。この強さ、このしれっとしたずうずうしさ、「なんだこの女は」と言うしかないような感触こそが、本当はモンスターのような恐ろしさの正体なのだった。(デプレシャンについては「ここhttp://boid.pobox.ne.jp/contents/review/004.htm」でも書いています。)
●『キングス&クイーン』は、六月中旬から、シアター・イメージフォーラムで公開されるそうです。