●テアトル新宿で黒沢清『LOFT』。黒沢清の新作を観るのはとても怖かった。ぼくは二十年来の「黒沢信者」なのだけど、前作の『ドッペゲンガー』を観た時、黒沢映画を観てはじめて「つまらない」と感じてしまった。その後ぼくは『ドッペルゲンガー』をビデオを含めると五回以上は観ているのだけど、見直すたびに「つまらない」という判断に対して確信を強くする。「つまらない」というのは「出来が悪い」というのと全く違う。ぼくにとっては、黒沢清の映画は傑作だろうと失敗作だろうと関係なく常に面白かった。一方、つまらない作家のつくる作品は、どんなに完成度が高くても「つまらない」のだ。だから、「つまらない」と感じてしまったということは、ぼくの方か、黒沢清の方か、どちらかの何かが決定的にかわってしまったということかも知れなくて、新作も「つまらな」かったら、それはほぼ決定的だということになってしまう。(『LOFT』に関する記事やインタビューなどは、なるべくみないようにしていた。)
●『LOFT』は見事なまでに破綻しまくった、ぐちゃぐちゃな映画だった。(この映画の公開がこんなに遅れたのも、充分に納得出来る。)黒沢清は、一本の映画を「一本の映画」として統合する術をすっかり見失っているとしか思えない。その破綻の有り様は半端なものではなくて、そのような意味で『ドッペルゲンガー』のようなつまらない映画とままったく違っていた。黒沢氏は、『ニンゲン合格』をつくる時、今度は失敗作をつくる、というようなことを言っていたのだが、出来上がった作品は黒沢氏の最高傑作の一つとも言えるようなもので、この時期の黒沢氏はあまりに聡明過ぎて失敗作などつくることは出来なかったのだろうと思う。それに比べ、現在の黒沢氏は半端ではなく混乱しているのだと思う。この作品は黒沢氏の混乱した頭のなかがそのままかたちになったような作品で、その弱点や限界をもさらけ出して混乱している、スピルバーグでいえば『フック』のような作品だと思う。
『LOFT』には、初期から現在に至までの様々な「黒沢的アイテム」がこれでもかというほど頻出していて、その意味ではあからさまな自己パロディのようであるのだが、その一方で、いままでの黒沢映画にはありえなかったようなものが雑多に侵入している。ありえなかったものの代表は、豊川悦司の(場違いとも思える)「熱演」であり、中谷美紀の「美に固執する女性像」(言い換えれば、中谷美紀の「異様な美しさ」)だろう。もしこの映画が『ドッペルゲンガー』のように役所広司と永作博美で撮られたとしたら(さらに大杉蓮のかわりに柄本明、西島秀俊のかわりにユースケ・サンタマリアで撮られていたとしたら)、まったく違ったものになっていたのではないだろうか。
この映画は黒沢的であると同時に「楳図かずお」的である。「美」に固執する女性が千年も前から何度も回帰する、というテーマがあからさまに『イアラ』のようで楳図的だし、中谷美紀が「泥を吐く」のは、『神の左手、悪魔の右手』にほとんどそっくりなイメージがある。そしてなにより、豊川悦司と中谷美紀のおよそ黒沢的とは思えない「顔の濃さ」が、楳図的なのだった。実際この映画では、黒沢映画では例外的な程人物にカメラが近づく。豊川悦司の、そこまで寄るのか、というようなクローズアップさえある。中谷美紀の鏡のなかのクローズアップから、この映画ははじまるのだし。こんなにあからさまに「顔」に語らせる黒沢映画が今まであっただろうか。豊川悦司と中谷美紀が二人で並べば、それだけで「異様」で、この二人だったら古典的な「怪奇映画」が可能なのではないかと思わせる雰囲気があり、実際『LOFT』では至る所であからさまな古典回帰がみられ、ある意味で、古典的な要素(黒沢氏にとっての外傷のようなもの)を切り捨てるとまではいかなくても薄めて「現在(現実)」を強調することで、『復讐シリーズ』以降の黒沢氏は(映画マニアにとどまらない支持を得るだけの)作品の完成度を高めてきたと思うのだが、この映画では思いっきり「古典的怪奇映画」(外傷)への揺り戻しがあり、その一方で勿論「現在」も色濃く刻み付けられていて、そのことが一層、この映画を混乱させ、破綻させているようにも思う。
(黒沢清の映画では「幽霊」が実態を持っているとはよく言われることだが、この映画の安達祐実も、幽霊というより動く死体であり、ゾンビであるようなものなのだが、しかしこの映画で何よりも「幽霊」的なのは、生きているはずの中谷美紀で、美に固執する生きている女性が最も幽霊的で怪物的だというのもまた、楳図かずおを思わせるのだった。実際この映画では、ミイラも安達祐実も中谷美紀も、まるで『イアラ』(楳図かずお)のように同一の女性の回帰=反復としか思えないのだが。しかし一方その回帰=反復という説話的な機能が、古典的怪奇映画のようにはうまく作動しないというところが現代的でもあり、つまり破綻しているということなのだった。)
●とにかくこの映画は、徹底して混乱していて破綻した「困った映画」であって、この映画を傑作であるかのごとく言う人は多分嘘つきだ。しかし、その混乱や破綻の有り様は決して「つまらない」というものではない。スピルバーグにとって『フック』や『太陽の帝国』の混乱が必然的なものであったように、黒沢清にとっても『回路』や『LOFT』の混乱は必然的なものなのだと思う。しかし、この映画の混乱の面白さは、おそらく、それなりに黒沢清という映画作家に思い入れのある人にしか通用しないのではないか、とも思う。この映画は、黒沢清が「聡明」な映画作家であるという段階を抜けて、もっと凄い作品をつくるかもしれないし、しかし、このまままったく駄目になってしまうかもしれない、という危ういところを歩みはじめたことを示しているのではないか。(やっていることは案外デプレシャンに近いのではないかとも思うが、デプレシャン程にはうまくいっていないことはあきらかだと思う。)
●この映画では西島秀俊の人物像が凄く変で、この人物をわかりやすいストーカーや快楽殺人者にしないところが黒沢清の作家性で(この人物像も西島秀俊だから成立するのであって、ユースケ・サンタマリアでは絶対無理だと思う)、最後の方で中谷美紀と一緒に首つりしようとするシーンとかとても面白いのだけど、黒沢清の映画をみていていつも気になるのは、その変さを「台詞で説明してしまう」というところなのだ。「それを知るには勇気がいるぞ」にしても「すべてを許す」にしても、そこで決め台詞としての言葉が強く前に出てきすぎると思うのだ。まあ、その言葉の唐突さが(十分に唐突であり得れば)面白いとも言えるのだけど。
●この映画は普通に「笑える」映画なのだが、劇場ではあまり笑っている人がいなかったので、笑い声を押し殺すのに苦労した。それでも、湖で、中谷美紀の頭に鉄の塊がぶつかって倒れるところと、豊川悦司が動き出すミイラに向かって、「動けるんだったらはじめから自分でやれよ」みたいなことを言うシーンでは、我慢出来ずに爆笑してしまった。しかし考えて見れば、その「笑い」はナンセンスなものというよりはマニアックな「閉じた」笑いに近いのかもしれない。ただ、これらのシーンは「笑わせよう」としてつくったシーンではないのだと思われ(『ドッペルゲンガー』は「笑い」をあてにしているところが嫌なのかも知れない)、それが救いだとは思う。