クローネンバーグ『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(と『LOFT』)

●クローネンバーグ『ヒストリー・オブ・バイオレンス』をDVDで観た。渋い。クローネンバーグは地味になればなる程凄みが増してくるように思う。『ビデオドローム』などで評判になっていた頃には、こういう作家になるとは思ってもみなかった。地味な描写を丹念に積み重ねてゆくなかで、しかるべき場面を突如炸裂させる。こういう「つくり」は昔からかわらないものの、以前のクローネンバーグは普通の場面があまり良くなくて、「決め」の場面だけで勝負するという感じだったたと思う。(ぼくはクローネンバーグはずっと好きではなくて、「いいな」と思いはじめたのは『クラッシュ』くらいからだった。)クローネンバーグが「地味」になったということはつまり、その「決め」の場面がそれだけで「売り」になるというようなものではなくなったということで、この映画でも、この程度の暴力シーンはいまどき「売り」になるようなものではないだろう。というか、この映画には「売り」になるような突出した要素は(ただ「要素」としては)何もない。にも関わらず、冒頭から緊張がずっと持続し、引き込まれ、納得させられてしまう。丁寧に積み重ねられる普通の描写のなかで徐々に、過去がじわじわと回帰して現在を絡めとり、ある時ふいにトムはジョーイに変身する。呪いの執拗な回帰や人物のメタモルフォーゼを描き出すのに、ホラー的な意匠や特殊メイクなどまったく必要がない、ということをこの映画は見事に示している。
●昔、蓮實重彦黒沢清との対談で、黒沢氏とクローネンバーグとの類似を指摘していた。(とぢらも、決して人を「満足」させない、とか、確かそういう意味のことを言っていた。)それを読んだ時にはピンとこなかったのだが、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』は確かに、『復讐シリーズ』や『蜘蛛の瞳』などを撮っていた時期の黒沢清に似ていると言えるかもしれない。ラストを、どこにも着地しないような、何とも曖昧で中途半端な主人公の奥さんの表情で締めくくって、観客を置き去りにしたままで終わらせてしまう感触など、とても近い感じがする。それに比べると、『LOFT』の終わり方はあまりに予定調和的だと思う。「運命が動き出すとそれはもう止められない」という意味のことを黒沢氏が繰り返し口にするのを知っている程度に黒沢ファンであるならば誰でも、このようなラストは容易に予測できてしまうだろう。あるいはこのラストは、『ドッペルゲンガー』のラストの単純な裏返しでしかないだろう。どちらにしろ「黒沢ファン」を容易に安心させ満足させる程度に予定調和的であると思う。あるいは、『ヒストリー...』の夫婦の関係に比べ、『LOFT』の豊川・中谷の関係はあまりに「運命」的(単純)過ぎる。ここでの男女の関係は、それによって「運命(過去・外傷)」から自由になれるものであるか、あるいは結局「運命」に絡めとられるしかないか(中谷もまたミイラや幽霊の反復でしかないか)の二者択一でしかない。しかし『ヒストリー...』での夫婦の関係においては、それはどちらか一方には簡単に決められない。トムがジョーイに変身してしまい、ジョーイが過去の因縁をとりあえず抹消した、という決定的な出来事が起こってしまった後でさえ、その関係は不確定なままで開かれている。それはラストの奥さんの表情にだけあらわれているのではなく、この映画全体を通して常にそうなのだ。この映画の緊張感は、そのことによって保たれているのかも知れない。