東京造形大学へ、来週の火曜(27日)にやるレクチャーの使用機材の確認および打ち合わせに行く。その後、ソクーロフの『太陽』の試写を観に行く予定だったのだけど、久々の母校で、学生のアトリエを見て回ったり、恩師と話し込んだりしてしまい、試写は間に合わない時間になってしまい、渋谷のシアター・イメージフォーラムで、デプレシャンの『キングス&クイーン』の六時半からの回を観ることにした。
●久々に訪れた「美大のアトリエ」の雰囲気は、学生がぼくなんかの頃よりもずっと小ぎれいになっていること以外は、驚くほどかわっていない感じだった。絵の具のにおいや、その雑然とした散らかり具合。学生たちは、アトリエにいても、一生懸命制作にうちこんでいるというわけではなく、廊下でだべっていたり、自分の作品の前で、アトリエの床に直接横になって眠っていたりする。大勢でひとつの広いアトリエを使っているので、そこに共通した「空気」は流れているのだけど、基本的に一人一人はそれぞれ勝手な事をやっている。美大の絵画科なんていう場所は、世の中の流れから最も遠い場所にあって、いくらでもある時間が、(勉強するにせよ制作するにせよ遊ぶにせよ)「(効率的に)有意義に使われる」なんてこととは全く無関係にただ無為に費やされていて、そのために「外」から入って来ると、そのあまりに緊張を欠いてまったりした空気の弛緩具合に、ここは天国なんじゃないかと錯覚したりする。ぼくは学生の頃、このような緩んだ感じに苛立ったりもしていたのだし(それはつまり、なにか「有意義なこと」をしなければいけないのじゃないかと焦っていた、ということなのだが)、今の学生だって、本当にこんなんでいいのかと不安に思ったりしているのだろうけど(だから内心はそれほどまったり緩んでばかりでもなく激しく波風がたっていると思うのだが)、そのような不安を抱きつつも、いくらでもある時間が、ひたすら無駄に過ごされるうちに四年なんてすぐに経ってしまって、結局何もしなかったということになるのだけど、「何もしない四年間」を過ごすことが出来ることは、かぎりなく贅沢で貴重なことだと思う。(というか、前もってある「意味」とはことなる、未だ確定されていない「何か」を探るような「事前」の時間は、そのようなもの、不安を抱えつつも有意義な事は何もしないというような時間としてしかありえないと思う。)しかし、今時こんな「場所」がいつまで保存され、存続されつづけるのかはあやうい話で、大学の先生の話を聞くと、いろいろ「制度」などの面で、前とは随分と違ってきているらしいことが分かるのだった。
●『キングス&クイーン』は、二度目だったこともあって、初めて観た時(http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20060427)ほどその展開の唐突な折れ曲がり具合に翻弄されることがなくなって冷静に観られた分、ちょっと弱いと思える部分がいくつか感じられたのだが、同時に、前に観た時よりさらに、デプレシャンが半端ではなく「やり過ぎて」いる感じが分かって、やはりこの映画は尋常なものではないと思った。(面白いのは、この映画では、人物の心理や身体的な連続性のようなものはかまわず切断され、切り貼りされているのだけど、動作のちょっとしたきっかけやポイントのようなものは、ちょっと神経質過ぎるほど丁寧に拾われていたりする。例えば、自動車を運転しつつ携帯で話す場面では、その声を拾うマイクを画面が捉えるために、一瞬だけカメラが激しくブレたりする。そこをわざわざ説明しなくても、とも思うのだけど。)この映画は、十年後に振り返ってみた時、デプレシャンはあの時から方向を間違えたんだよなあ、とか言われるようなものに、もしかしたらなるのかも知れないという危険さえ感じられるのだけど、良くも悪くも、そこまでやってしまっているという凄みがあり、その凄みこそが面白い。(それにしても、ずいぶんと空いていたのが気になった。)