●今月末に、出身大学でやるレクチャーのタイトルとその内容を早々に報告する必要があって、どうしようかといろいろ考えていたのだが、ふと、ビルの階段を駆け下りている時に、「作品を、(観者)として外側から考えることと、(作家として)内側から考えること。(そのズレと重なり)」というのはどうだろうと思いついた。以下、その大雑把な内容。
(1)作品をつくる者である限り、「作品」について常に二つの側面から関わることが強いられるだろう。
(2)一つは、他人のつくった作品を(あるいは、「作品」というもの一般を、また時には、自分のつくった作品を突き放して)、外側からみて、それについて考え、刺激をうけたり、理解しようとする、という側面。
(3)そしてもう一つは、自分で自分の作品をつくりつつ、作品がつくられる過程で(あるいは作品をつくりつづける長い月日のなかで)、実践的な試行錯誤を通して、作品がつくられつつ(生成しつつ)ある流れのなかに身を置きつつ、それを内側から、経験的に考えようとする側面。
(4)言い換えるならば、前者は、作品が出来上がった後から、「事後的」にその結果について考えることであり、後者は、出来上がりつつある作品を、完成する「事前」の場所において考えることだと言えるだろう。
(5)この二つの側面は、ぴったりと一致することはないだろうし、また、まったく切り離されてしまったら意味がないだろう。決して一方に還元し切ってしまうことが出来ず、常にズレを孕みつつも重なり合う、この二つの側面から、作品について、絵画について、考えてみたい。
(具体的には、まず、面白いと思う「絵画」やそれ以外の「作品」を示しつつ、それをどのように面白いと考えているのかを述べて、その後、自分の作品を示して、それが、どのような考え、どのような方法、どのような「感じ」でつくられているのかを述べる。)
●これはあくまで、ビルの階段を五階くらいから一階まで駆け下りている短い時間に考えついた大雑把なもので、詰めて考えられたものではないし、具体的にどんなことを話すのかもまだ全然考えられていないのだが、とりあえず早めに相手方に内容を伝えなければならないので、上記のようなことを伝えた。伝えてしまってから、こんな大それたテーマを設定してしまって大丈夫なのかと不安になったのだった。(だいたい、自分がつくった作品であっても、それが一度「完成」してしまえば(つまり、ある程度「確定的な意味」が生まれてしまえば)、それをつくっている最中の「完結されていない宙づり状態(寄る辺ない感じ)=事前であること」は、本当のところは分からなくなってしまって、それを事後的に、つまり「外側から」捉えるしかなくなってしまうのだし。)
●で、具体的に、どんな作品について、どんな話をしようかと考えながら、夜中に、好きな画家の画集を沢山積み上げて(セザンヌマティスやボナールやティツィアーノやヴェロネーゼやプッサンやジオットや...)、じっくりと時間をかけていろいろと眺めていたら、いまさらながらだけど、絵画って本当に面白いものだと、何でこんなに面白いのだろうと思えてきて、唐突に、自分が画家でよかった、画家であるということはなんて幸せなことなんだ(リアルな話としては、貧乏で苦しいし、四十近くなっても先行きの見通しはまったくたたないのだけど)、という感情が強く湧き上がって、自分でもちょっとおかしいんじゃないかと思うくらい高揚した多幸感につつまれてしまったのだった。