●『溶岩の家』(ペドロ・コスタ)をDVDで。今までに観たペドロ・コスタの映画(他には『骨』『ヴァンダの部屋』『コロッサル・ユース』)では、ぼくには一番面白かった。そして、この映画の面白さの多くは、珍しい風景や建物、そしてうつくしい光が見られるということで、この映画はいわば、植民地趣味的な観光映画であろう。これは厭味でもなんでもなくて、リュミエールからデュラスまで、「観光」的な興味が、原理的に、いかに映画というメディアと密接に絡み合っているのかということだと思う。いま、ここにはなくて、しかし、世界のどこかにはある光景を、見ることが出来る、ということ。そこに暮らす人たちが、いかに貧しく苦しい生活をしているとしても、そのことが示されているとしても、魅惑的な風景や光が映し出されれば、それを見る者は心が躍る。
それと、映画というのは、一度撮って(録って)しまえば、その映像や音声を、どのようにでも繋げることが出来てしまうのだなあ、ということも強く感じた。どのカットとどのカット、どのシーンとどのシーンとでも、ただ、繋げれば、繋がってしまう。空間的な隔たりも、時間的な隔たりも、前後関係すらも関係ない。撮影された風景そのものは、実際に、そこに、そのようにしてあったものだとしても、一度、撮影され(録音され)ることで「映像(音声)」として記録媒体の上で一元化されてしまえば、隔たりも前後関係も関係なく、編集台上の操作だけでいかようにも結びつけ、重ね合わせることが出来る。撮影されたものが現実的にそのようにあることと、カットとカットの連鎖が、いかようにも操作可能であること。実写映画は、まさにそのことによって成り立っている。
そのように繋げられていれば、観客はそれを、ただ、そのようなものとして受け入れるしかない。その接続がいかに、唐突に、非合理的にみえたとしても、観客はそれを一旦、否応無く呑み込む。あるカットから別のカット、あるシーンから別のシーンの間にある断絶、その断絶を飛び越えるショック、観客にとって映画体験とは、そのような断絶やショックが、自動的、機械的に次々とやってくるということであり、断絶やショックを受動的に受け入れつづけながら、その断絶やショックを事後的に、つまり映画の進行からほんの一歩、あるいは数歩遅れながら、「頭のなか」で合理化したり、合理化し損なったりしつづけることなのではないか。見える(聴こえる)ものを追うことと、ある見える(聴こえる)ものと、別の見える(聴こえる)ものとの間にある落差を受け取り、その落差を埋めようとしたり埋め切れなかったりすること。そしてそれが、上映時間だけつづくこと。映画をつくるということは、見える(聴こえる)部分をつくるというだけでなく、このような「落差の連鎖」をつくることなのではないか。
このような、落差の連鎖をつくることは、説話的な次元での「省略」という言い方ではまったく足りないように思われる。省略することが問題なのではなく、異質なものを積極的に「接続」することこそが、落差、そしてその落差を飛び越える何かを、生み出す。そしてその落差こそが、(撮ること、録ること、による)記録媒体上への一元化を越える、デコボコとした物質性をもたらすのではないか。