03/12/16

●画材を買いに出掛けたついでに本屋をのぞいたら、ロラン・バルトの『新しい生のほうへ』という本が出ていて、パラパラと立ち読みして、迷ったあげく結局購入しなかった(画材を買い込んだ後だったので、何冊かの文庫本しか買えなかった)のだが、バルトのきわめてブルジョワ的な、自分の身体との関係の仕方と、ペドロ・コスタの『ヴァンダの部屋』の、ルンペンプロレタリアートたるヴァンダの自らの身体との関係の仕方とは、案外と近いものがあるのではないかと、バルトがダイエットについてのインタビューに答えているのを読んで思った。そこに書かれていたのは、イメージとしての自らの身体と主体との関係のあり方としてのダイエットというのではなく、決して表象化されない現実的(基底的)な身体が欲してしまう嗜癖としての欲求と、それを主体的にコントロールしようとする試みとしてのダイエットとの関係について語られているように思えた。ぼくが『ヴァンダの部屋』に対して最も興味深いと思うのは、表象化されることのない現実的なレヴェルでの身体の崩壊の予感が、表象の体系としての映画作品の内部にはっきりと刻まれているように感じられたという点にある。そして『ヴァンダの部屋』において身体は、崩壊に晒されていると同時に崩壊に抗ってもいる。青山真治は、このような身体のあり方をこそをプロレタリアートだと(昨日のペドロ・コスタとのトークショーで)言うのだが、ぼくは、自らの身体の崩壊(の予感)と、主体との関係のあり方(抵抗のあり方)に、ブルジョアジープロレタリアートもないのではないかと、バルトのインタビューを読んでふと思った。バルトは現在ちょっと軽くみられているようなところがあると思うのだが、自らの身体とどのような関係を結ぶことができるのかということを考えるとき、とても重要な存在なのではないかと感じた。

●「新潮」の1月号に載っている短編小説をいくつか読んだ。それにしても、佐藤友哉はもう完全にダメになってしまったのだろうか。『慾望』のあまりのダメさ加減には開いた口が塞がらなかった。出だしの部分だけは、ちょっとかっこよかったし、文章も多少は上手くなったのかなあと思ったのだが、その後の展開があまりに駄目駄目で、救いようがない。なんでこんな小説が堂々と文芸誌に載ってしまうのか理解出来ない。もし作家が、これを多少でも新しく、挑発的なものだと思っているとしたら勘違いもいいところで、これは、前衛的ということを勘違いした早熟ぶった中学生が文芸部の雑誌に載せるようなレベルの小説でしかなく、最もありきたりで古くさくてセンスが悪いという意味での「文学的」なものの典型で、たんに「意味がない」ということを薄っぺらに(観念的に)「説明」しているだけの、箸にも棒にもかからない、馬鹿まるだしの小説だと思う。もし、担当の編集者が、佐藤友哉という人の才能を本気で買っていて(ぼくはまだ、佐藤友哉に才能があるのではないかという思いを捨て切れていないのだが)、何とか一人前の小説家として育てようと思っているとしたら、こんな小説は当然ボツにしてやるのが愛情というものではないのだろうか。(『エナメルを塗った魂の比重』の破れかぶれ的な筆力は、たんなる幻だったのだろうか。)それに比べ(いや、『慾望』なんかと比べるのは全く失礼な話なのだけど)阿部和重の『馬小屋の乙女』の下らなさは、さすがに生半可ではないところまで到達していて、特にその超下らないオチのつけ方のあまりの下らなさには、くっだらねえ、という言葉を呆然と呟く以外に対処しようのない、まさかそうくるとは、という痛快な下らなさで、佐藤友哉などとは腰の入り方が全然違うことを見せつけてくれる。