J・D・ナシオ「精神分析における身体」

●「imago」という雑誌の1994年二月臨時増刊「ラカン以降」に載っていた、J・D・ナシオ「精神分析における身体」というテキストが面白かった。ここでは、精神分析において現れる三つの身体、性的身体(現実界)、語る身体(象徴界)、想像的身体(想像界)をそれぞれ説明しつつ、無意識の形成物とは異なる(享楽する身体=現実界において発現する)「対象aの形成物」という概念を提出している。抑圧された表象が、シニフィアンの連鎖(ネットワーク)によって循環し、身体の上にその位置を換えて代理物としてあらわれるのが無意識の形成物で、これはふいの言い間違いや物忘れのようなものとしてあらわれる。(ここでは、抑圧されたものとその代理物は、シニフィアンの連鎖によって繋がっているから、それを分析し、逆に辿ることが出来る。)しかし、「対象aの形成物」は、このようなシニフィアンの連鎖を断絶して吹き上がる。《この「対象aの形成物」という心的形成物がもつ主要な特徴は、享楽が支配的になり、抑圧の防波堤を破壊するようにみえる点です。あるいは別の良い方をすれば、ファルスという防護冊がうち崩されたように見えるのです。》「対象aの形成物」は、自殺企図、凶暴な行動化、身体器官の病気といった形であらわれる。例えば、黒沢清『叫』で、「幽霊」は無意識の形成物と言えるが、「地震」は、対象aの形成物と言えるのではないだろうか。
●いくつかの予備的な引用
「享楽」について。(訳者による要約)《すでにラカンが分離したように、現実的なものとして身体をつき動かす「享楽」は「快感」とは異質な心的様態である。快感は、直接に知覚できる意識的あるいは無意識的な心地良さであり、緊張の軽減である。これに対して享楽は、無意識的で直接には知覚されず(知覚されても「事後的」である)、快感とは逆に、心的エネルギーが増大し緊張が高まる状態をいう。享楽は心的表象をもたないため、言語では表現されず、その発露は臨床場面ではアクティング・アウト(行動化)や発作などの形をとり、ときには苦痛となって現象する。つまり、享楽を得るのは自我でもなければ内部の主体でもなく、「外部」の無意識的な「事物」なのである。それは「排除」の機制のなかで際立って現出する。また、時間的にみれば、快感は一過性であるのに対して、享楽は持続的であり、持続する生の緊張である。そしてこの緊張が「反復」をつくりだす。だから享楽は「反復強迫」だとも言える。このように生を支えるものとしての享楽は、ひたすら身体という場で展開する。だから身体は「享楽の場」なのである。》
「性的身体」(現実的なもの)について。《性的身体という規定性の枠内では、身体は享楽を得る身体部分に還元されるのです。この視点にたち、全体的身体などというものは実在せず、身体とはつねに一つの部分なのだということが確認できました。もっと的確に言えば、身体とはその[身体]部分に集積した局部的な享楽のことをいうのです。》
《なぜ「性的」な身体という表現を使うのでしょうか?そのわけは、身体がすっかり享楽そのものとなっており、しかもその享楽は性的なものだからです。(略)なぜなら、享楽が理想として熱望する目標は性的な特質をもっているからです。ですから、享楽の衝撃を受けてその波に押し流されて生じてくるものは、具体的行動であれ、ことばであれ、幻想であれ、あるいは何らかの身体部位が性感性をもつ場合であれ、すべてが性的特質を帯びることになります。》
「語る身体」(象徴的なもの)について。《「語る身体」という語の意味は、精神分析に関与する身体が、肉と骨からなる身体ではなく、一連の集合をなす能記的身体として把握された身体だということです。語る身体の一例を挙げれば、顔があります。顔には、輪郭があり、表情があり、互いに異なったり似通っている特徴がみられます。さて、ここではっきりしておくべきことがあります。この「語る」という形容詞は、身体がわれわれに語りかけるという意味ではなく、身体が能記になるということです。つまり、身体は相互に語り伝えあう諸能記にもなるのです。顔はさまざまに異なる要素がからみあう複合体をなしており、たんに何らかの意味を暗示する表情である以上に、もっと別な何かなのです。顔に何らかの感情があらわれるとき、それは心像(イマージュ)としての身体となります。しかしその同じ顔が[無意識のうちに]とめどもない言葉を発するとき、それは能記としての身体になるのです。》
《患者さんの表情や歩き方、そして面接中の座り方などにも注意を払います。しかし、私が好感をもったりあるいは不快に感じたりするこの身体は、能記としての身体ではありません。逆に、ある顔の表情が能記(シニフィアン)になるのは、たとえば面接中に[患者の]表情を見た私[分析家]が、思わず心の底から相手に向かって発言せざるをえなくなったときです。》
「想像的身体」(想像的なもの)について。《この心像としての身体とは、鏡に映った自分の像ではなく、私の同類(同じ者)としての(小)他者が私に送り返す心像をいいます。この他者は、必ずしも自分の身近かな人であるとは限らず、自分が生活している世界のあらゆる対象をさします。自分の身体像とは、何よりもまず、己の身体の外部に知覚される像(イメージ)です。この像は、外部から自分のもとにたち戻ってきて、己の性的身体に、つまり享楽を得る身体に形(フォルム)とまとまりを与えています。(心)像としての身体とは、たとえば、私が身につけているこの腕時計であったり、私の銅製のランプて゜あったり、私の家であったりもするわけです。これらの対象(物)は、像(イメージ)をなしており、私にとってそれらが情緒的な価値をもつかぎり、私の心像なのです。ですから、たとえば私の家は、それが私の心のなかで親密な意味をもつ限り、私の身体の延長であり、身体像だと言えましょう。》
《第一は、身体像が外部に由来するものだという点です。(略)第二に、それは自分の享楽の源を覆い包むのに適したプレグナントな姿[良い形態]をしています。ですから享楽を得る性的身体は、つねに想像的な見せかけによって覆い隠されており、この見せかけを人は自分の外部に把えるのです。》
●そして、対象aの形成物について。
《それは、話の流れのなかでふと語られた事柄などのような能記としては表現されずに、何らかのふるまいとなり、ときには暴力的で思いもよらぬ激しい動作にもなります。そうしたふるまいもまた対象aの形成物の臨床的表現であって、転移はこのふるまいのなかに集約されるのです。それは無意識的幻想、一過性の幻覚、自殺企図などであったり、あるいはまた今お話しした腫瘍といった病気の形をとっても現れてきます。(略)いずれにせよそれらの心的形成物はすべて精神分析家から見れば、享楽を得る身体部分が優勢になっており、それが能記的な姿をとって現れるのです。幻想を抱く、幻想に陥る、身体器官の病で苦しむ、といったあり方はいわば《ふるまい》なのですが、しかしその活動因子は主体ではなく、自律的な特定の身体部位であって、これが転移という現実の総体を支配し圧倒するわけです。》
《無意識の形成物の場合であれば、[発話]行為は修復としての意義をもち、そのさい諸能記が網目(ネットワーク)をつくって互いに絡みあうなかで絆がつくられます。これにたいして対象aの形成物の場合には、ふるまいが中断をつくりだし、対象aは分析家と被分析者の関係を濃密で末期的な享楽として結晶させるのです。》
《ヒステリー性の転換症状は、抑圧の機制で説明できるわけです。たとえばヒステリー性の視野狭窄といった[神経症]症状は、無意識のなかに押し込まれ抑圧された表象(S2)が身体上に表れた代理物(S1)なのです。神経症症状の形成物では、S1/S2の能記的な連接が維持されていると言えます。これにたいして、身体器官の疾病は、幻想を除いた他の対象aの形成物と同じく、排除のメカニズムに由来します。つまり、抑圧された表象(S2)の代理物(S1)が、期待された場面に登場してこないということです。その結果、隠喩も象徴連鎖もともにつくられることなく、一つの能記(S2)ともう一つの別な能記(S1)の結びつきは断たれてしまします。この排除の機制においては、能記はもはや他の諸能記に差し向けられていないかのようであり、諸能記は相互に連接しあっていないかのようです。》
《身体器官の病気が生じた場合、分析家はいっさいの能記的な影響力を失ってしまい、もっとも優れた解釈でさえ濃密な享楽のなかには入り込むことができなくなります。分析家に残された対応としては、困難であっても、器官の病に《たち向かう》よう試みることです。もちろん直接それを治療することではなく、すでにお話ししたように、意味の産出という迂回的な道を辿ることによってですが。》