中上健次をちょっとずつ読み返しているのだが、中上健次はホラーとして読むととても面白い。特に、秋幸三部作とそれに先行する「蝸牛」「補陀落」は、ぼくにはホラーとしか思えない。
秋幸のやろうとしていることは、象徴的な父殺しなどではないように思う。むしろ、母性的な空間に埋もれていることと父の不在によって、能動性が欠如し、行為の失調を強いられて苦しむ秋幸が(秋幸の能動性は土方仕事の現場-純粋な行為としてしか発現されない)、なんとかして自分の力で父を創出-建立しようとするのだが、しかしそれに失敗しつづける、というのが秋幸シリーズの一貫した主題ではないか。つまり、父の殺害ではなく、父の建立こそが主題であるように思う。
その試行と失調としてあらわれる細部の様々な形象が、その感触が、とてもホラー的なのだ。例えば秋幸には姉が二人いて、家が二つあり(母の家と姉の家)、「あの男」とは別の、形式的な父の位置を占める人物が二人いる(母の夫-義父と、姉の夫-親方)。律儀に図式的とも言える双数的分裂が秋幸シリーズには至るところにみられ、これはほとんど高橋洋的だとさえ言える。そして、父である「あの男-龍造」もまた、秋幸自身の自己像の外的投影として造形された分身(双生児)のようなものなのだ。そうである限りにおいて、それは父の機能を十全に果たすことは出来ない。
あるいは、秋幸シリーズでは意外に「音」の描写が少ないのだが、印象的な音の描写は、しばしば幽霊的なものや死を招き寄せる、とか。他にもいろいろ。
ラカンに従えば父による去勢には二つの段階がある。まず、母のファルス(欲望の対象)であることを欲望する子に対しそれを阻害すること。お前は「ファルスそのものである」ことは出来ず(想像的同一化の否定)、ただ「ファルスをもつ(象徴的な位置を得る)」ことが出来るだけだ、と。そしてさらに、そのように子に対し去勢を行う父自身もまた、ファルスそのものであるのではなく、たんに象徴的な法に従うことによって、ファルスの位置にいる(ファルスをもつ)者であるに過ぎないことを示す(ファルスの位置は移動する)。龍造が、秋幸の想像的な分身である以上、このような機能を十分に果たすことはできないだろう。
これはたんじゅんな批判ではない。秋幸のこの混乱と格闘と失調(それはぼく自身にとってもかなりの程度でリアルだ)が、ささやかな短編「蝸牛」や「補陀落」としてあったものを、『地の果て、至上の時』のような長編にまで爆発的に発展させるのだと思う。
●関係ないけど、ジブリのアニメが公開され、そのスポットなどをよく見かけるようになって、そのためにまた「小さいおじさん」のことが気になるようになった。「小さい人」を見てしまう人の多くが、何故それを「おじさん」の姿として見るのか。それがとても不思議で、とても面白い。
●メモ。高橋洋『恐怖』の公開がもうはじまっていた(http://www.kyofu-movie.jp/)。これは見逃せない。