●何かと「戦って(闘って)いる」と思っている時点で既に負けているんじゃないだろうか。このような形で今ある(決して敵の消えることのない)世界のなかで、どのように、戦うことを強いる磁力とは無縁に、生きることの可能な隙間をみつけ、あるいはそれを積極的に作り出すことが出来るのか、ということが問題なのではないか。つまり、敵を倒そうとしたり否定したりするのではなく、敵と同じ世界(同じ構造)のなかで、敵とはまったく別の原理によって振る舞うこと(それを可能にすること)こそが、それだけが、(積極的な創造としての)闘いなのではないか。そのための原理や、技術や配慮や機転が必要なのだ。
それは、積極的な何かを組み立て、作り上げ、自身の存在や生を支えるためのもので、何かを攻撃したり否定したり斬ったりするための(外向きの)武器ではない。「戦うこと」をモチベーションとしてはいけないのだ。
敵と和解せよ、ということではない。それとは真逆の、決して和解するな、ということだ(「自らの欲望に譲歩するな」ラカン)。簡単に和解できるならば敵ではない。決して和解しないためにこそ(戦いではなく)「創造」が必要なのだ。そもそも、実際に戦うことを強いられる相手(や、その向こう側にある象徴的な何か)が敵なわけではない。敵を倒しても決して「勝つ」ことは出来ない。敵の位置を間違えないこと。