●今月中に済ませなければならないことがあって、差し迫って余裕がないのだけど、そればっかりやっていても辛いので、なるべく頭を使わない気晴らしとして、ネットフリックスで『アンビリーバブル号の財宝』をぼんやり眺めていた。
去年ベネチアダミアン・ハーストがやった展覧会があって(財宝をたんまり乗せたまま難破した2000年前の船が海中で発見されて、2000年もの間海底で眠っていた遺物の調査と引き上げが行われることになり、ダミアン・ハーストはそのための資金を援助し、その時に引き上げられた膨大な遺物を展示したという体でなされた展覧会だが、その設定はすべてフィクションで、勿論、そられ遺物は実際には全部現代につくられたものだ、という展示)、この映画はその展覧会の一部としてあるフェイクドキュメンタリーで、遺物の発見とその引き上げのさまがあたかも実際に行われたかのように示されている。
こんなに手間暇とお金をかけて、こんなに意味のないことをよくやるよという感じの、胡散臭さ満載の映画で(展覧会自体はとてつもなく豪華で悪趣味であったらしいので、ちょっと気になるのだが)、普通に観ていればこれがフェイクであることは分かるだろう(海底にミッキーマウスのような像があったりする)とは思うのだけど、ネットフリックス上の説明では一切「フェイクドキュメンタリー」という記述がない。さすがに、カテゴリーは「ドキュメンタリー」ではなく「海外ヒューマンドラマ」となっていて、フィクションだと匂わせてはいるが。
ネットフリックスで説明は以下のようになっている。
《海中に眠る遺物を引き上げて巨大なアートとして展示した芸術家、ダミアン・ハースト。東アフリカの海に沈む遺物を調査して引き上げる様子が克明に記録される。》
これをフィクションの「あらすじ」だととれば間違ってはいないのだけど、ダミアン・ハーストは実在するアーティストだし、実際に展覧会は行われているし、映画はあたかもドキュメンタリーであるかのようにつくられているので、ここに「フェイク」だというメタ情報を入れておかないと、かなり多くの人がガチのドキュメンタリーとしてみてしまう可能性があるのではないだろうか。
この映画が、展覧会の会場で流されているならば、「展覧会」全体において提示されるフィクションのためのパーツの一部となり、つまり展覧会という文脈のうちがわに置かれるから、そのフィクション性を読み違える人はいないだろうけど、展覧会から切り離されて、単体の映画作品として、ネットフリックスのような場に並んでいると、ダミアン・ハーストを知らない人には、文脈を拾うことができなくて、フィクションだと判断しにくくなってしまう。
というかそもそも、この映画がどういう経緯で(いわゆる「アート市場」とはまったく異なる文脈にある)ネットフリックスに「売られた」のかがよく分からない。
ダミアン・ハーストは「アート市場」のなかでは巨大な存在であり、多少でもアートに興味がある人であれば、ベネチアでの展示のことも知っているだろう。でも、ネットフリックスを観ているほとんどの人は、ダミアン・ハーストベネチアの展覧会も知らない。そういうところに、何の説明もなく、いきなりこの映画を紛れ込ませる(紛れ込んでしまう)というのは、ちょっと変な(ノイジーな)ことだ。
でも、じゃあそれが面白い事かと言えば、大して面白くもないと思う。多くの人は、この退屈な(フェイク)ドキュメンタリーを途中で観るのをやめてしまうだろうし、最後まで観て、ドキュメンタリーだと勘違いしたままだとしても、その内容の理解はふわっとしたままで、すぐに忘れてしまうだろう。この映画はあくまで、ダミアン・ハーストの展覧会の一部(あるいはその記録)という外側からの注釈がついてはじめて意味をもつもので、この映画じたいは---胡散臭い、あるいは批評的な、フェイクドキュメンタリーとしても---自律的に映画として成立するほど面白いものではないと思った。