●昨日、下北沢トリウッドで観た『亀』(池田将)について。
男性の二十代というのは、なんというか「とりとめがない」感じだ。体力はあるし、いろいろやってみるのだが、やることにひっかかりというのか、手応えのようなものが感じられず、どこか空回りしているような感触で、こんなことでいいのかと思いつつも、目の前には、茫洋として具体性を欠いた、しかし膨大な時間がひろがっている。「とりとめのない感じ」は、精神的なものというよりも、身体的なある状態として、身体そのものであるような「気分」として、常に傍らにある。二十代は、孤独感もとりとめがなく、空しさもとりとめがなく、性欲もとりとめがない。それは過剰ではあるが、(十代の頃のようには)爆発的ではなく、どこか不発のまま、脇道へ逸れて流れていってしまうような感触だ。そして、そういう気分で、そのような身体的な感触のなかで二十代を過ごしてきたということを、四十歳にもなると、けっこう忘れてしまっている。『亀』を観て感じたのは、もうほとんど忘れてしまっているが、身体のどこかに微かに残っている、その「とりとめのない」感じが疼き出し、目を覚ますような感触だった。すっかり忘れていたけど、二十代ってこんな風にとりとめがなかったなあ、と。(多分これは、二十代の人にしかつくれないような映画なのだと思う。)
そのようなとりとめのなさは、なによりもこの映画の時間の感覚のなかにあらわれているように思う。この映画の一つのショットの持続時間は、おそらく、そこにいる俳優の身体的なリズムに合わせて決定されているように思った。いや、ショットの持続時間だけではなく、そのショットの内部の時間の構築そのものが、俳優の身体的リズムを尊重している、というのか。その人がそこにいる時間がまずあって、映画の時間はそれに合わせられて組み立てられる。切れ味のよいモンタージュがなされているのでもないし、間が必要以上に強調されているわけでもない。モンタージュによって時間が構成されているのでもなく、しかし映画的な長回しとも異なる。だから、二人の俳優、あるいは三人の俳優が同一のフレームのなかにいる時、複数のリズムがショット内に同時に存在していて、当然のように噛み合ない。しかしここでも、その噛み合なさが強調されたり、ことさら噛み合なさが演出されているわけでもないようなのだ(「噛み合なさ」が先にあると、そこに固定的なフレームが生じてしまう)。ある場所があり、そこに三つの異なるリズム(時間)が存在する。その事実がまず先にあって、それをどのように捉えるのかが探られる、という感じ。
新聞販売店の社長と、そこに新しくバイトで入った三浪中の男、そして古くからのバイトの男の三人が、これは仕事の前なのか後なのかよく分からないが、合間の時間に話をしているシーンがあった。話されている内容は、バイトをつづけられそうか、とか、新規の契約があるアパートでとれた、とか、誕生日のプレゼントで今まで一番嬉しかったものは何か、とか、そういうことが、別に何ということもなくだらだらと話されている。この、フィックスのワンカットで撮られているシーンはとても素晴らしいのだが、ここでは本当に、人がこういう場所でこういう話をしている時間がリアルに造形されている。三人がそれぞれバラバラにいて、おそらく全然別の事を考えていて、人のことをそれほど気にしてはいなくて、でも、なんとなく会話が成り立つ程度には他人に配慮していて、惰性の時間が流れているのだが、あるゆるーい愛着のようなものもあり、この時間そのものを皆決して不快には感じていない。まあ、要するにダベっているのだが、親しい者同士がダベっているのははまた違って、互いに必要以上に近寄らない遠慮と、しかしなんとなく誰かといたいという感情もあって、この場になんとなく居残っている。そいうい感じを、こんなにもリアルに切り取った表現を、映画でも、映画以外のものでも、ぼくはあまり知らない。
あるいは、新聞の配達が終わった後、古くからのバイトの男と、新しく入った男とが公園にいる場面。古くからの男は、ベンチに座ってタバコを吸っている。新しい男は、(配達している時は自転車だからバイクの免許を持ってないのだろう)その後ろ側の空き地でバイクの乗り方を練習している。この場面も、ベンチの男を中心とした微妙に狭いフレームのワンカットで撮られていた。もし、黒沢清だったら、後ろ側の空間をすごく洗練されたやり方で見せるだろうと思うのだが、ここではそのような後ろ側の空間を生かすような構図にはなっていなかったと思う。ここでも、新旧二人のバイトの男は、一緒にいながらもまったく別の時空に存在しているかのようだ。新しい男は、三浪であるとはいえ受験という目標があり、大学へ入れば将来が開けるという希望ももっているから、「とりとめのなさ」という意味ではまだ軽症であろう。一方、古い男はより「とりとめがなく」、目の前にひろがる膨大な時間は茫洋としており、どのような道しるべも失っているかのようだ(新聞配達とは別に、AVの「汁男優」のバイトもしているこの男の「その姿」は、徹底して「とりとめがない」ようにみえるし、アパートの部屋にさりげなくギターが一本立てかけられてあるのが泣ける)。この二人は一緒にいても全然別の方向を見ている。「夢は何ですか」とか「新聞配達をしていると社会に参加しているような気分になる」とかバカなことをいう新しい男(こういうバカなことを平気で言うところがまた「若い男の子」のリアルさで、それは決してネガティブなことではなく、実際、このような軽卒な物言いこそが、この二人の関係を近づけたのだろうし、古い男もそれを決して不快には感じていないはずなのだ)に、古い男は答える言葉をもたない。それでもこの二人は、仕事の後、なんとなく一緒にいるのだし、それを望んでいる程度には相手に関心も愛情もある。この感じ。
●物語の次元では、ぼくはこのような群像劇という形式にはやや無理があるように思われる。無理があるというよりは、安易に感じられてしまうというべきか。もし、シナリオとして読んだら、この映画が面白くなるとはあまり思えないだろう。しかし、描写の次元で、一人一人の人物のもつ「時間」がしっかりと尊重されているから、辻褄合わせ感や無理矢理な操作感がなく、作品として素晴らしいものになっているのだと思う。例えば、不発弾を持っている女の子など、発想としてそんなに面白いとは思えないのだが、父親につくってもらった弁当を川原で鳥にあげてしまう場面の、なんとも素晴らしい体の動きがあったりするから、ちゃんと成立しているのだと思う。あと、鼻血男の背後からにじり寄ってくる鬱陶しい友人とか、とても素晴らしいと思った(ポッキーのチョコレートのとこだけ舐めるとか、本当に鬱陶しい)。そして、男の子同士の関係って、本当にあんな感じだよなあ、と凄く感じるのだ。だが、その「あんな感じ」を、このような形で形象化している作品は、他にないんじゃないかとも思うのだ。
●この映画では面白くないところが一カ所もなく、あらゆる事柄がリアルな感触をもって迫って来ると言ってよいと思うのだが、最後の方で地震があった時だけ、観ていて唯一嫌な予感がした。最後に(『マグノリア』のカエルみたいに)地震でまとめようとしているのなら、この作品のすべては台無しになってしまうのではないか、と。しかしそれは杞憂で、地震は、なんともいえない中途半端さであっさり収束してしまう。この、地震の中途半端さが絶妙で、ここでこそこの監督の才能が証明されるのではないかと思った。