●マティスの作品としては、いままでは割と関心が薄かったタイプの作品(1935~6年頃に描かれた、後に「ルーマニアのブラウス」とか「夢」へと発展してゆくような、オダリスクとは異なるタイプの人物画)が、突然、それまでとはまったく異なる新鮮さで眼に入って来て驚く。いままでの自分は一体何を観ていたのか、と思うほどに、そこでマティスがやろうとしていたこと、掴もうとしていたものが、ありありと、まさに手で触れられるようにはっきりと感じられた。(実物を観ているわけではなく、画集で観ているのだが。)作品に触れるというのは、こういう瞬間のことをいうのだ。
●「グエムル」の元ネタのひとつだということなので、機動警察パトレイバーの「廃棄物十三号」を観た。これは元ネタというよりも、完全に原作といっていいくらだった。ポン・ジュノは、これを換骨奪胎することで「グエムル」の構想をつくったのだろう。
ただ、パトレイバーの方は、怪物ものというよりも人間ドラマが主で、若い刑事とベテラン刑事の関係、若い刑事と恋人との出会い、ベテラン刑事の孤独、警察と軍との関係、そして母と娘の関係といったものが描かれていて、怪物が派手に動き回るシーンは二つしかない。(アニメにしか出来ないことを抑制して、むしろアニメが苦手なことをあえてやっている感じだ。)
ネタバレになるけど、パトレイバーではいわば娘=怪物で、母親が怪物を育ててしまう話なのだが、「グエムル」では母親は不在であり、娘が怪物に連れ去られる。パトレイバーでは、ベテラン刑事が家族に逃げられ、科学者の女性は家族と死に別れ、若い刑事は独身である(そして母は不在の娘の代理として怪物を育てる)、という風に、不在であることによって家族が際立つことになっているのだが、「グエムル」では、あからさまに家族が扱われることで、それはむしろ希薄になる。「グエムル」の家族は、家族というよりも、共通の目的(利害)によってたまたま集まった個人によるグループという感じの方が強い。(家族がはじめて集まる共同葬儀のシーンにそれはよくあらわれている。)
パトレイバーでは、怪物は娘でもあり、それは半ば人間化されてもいる。観客は、感情移入が困難であるものに対する感情移入を経験し、それがある強い感情を喚起する。(クライマックスのシーンで、両生類を思わせるヌメヌメの怪物がかっちりとした人工的な鎧をまとっているイメージなどあからさまなのだが、これは「エヴァ」に近いイメージであり、怪物は多分に心理学化されている。)
「グエムル」の怪物は、たんに得体の知れない怪物であって(つまり母=根拠は不在で、人間化=家族化されていなくて)、そこに感情移入は起こらない。(だから冒頭から、もったいぶらずにあっさりと可視化され、この怪物への感情ではなく、その動きそのものに、観客は魅了される。)この怪物をアメリカの隠喩だなんていうのは、馬鹿げている。「グエムル」においては、面倒臭い説明は全部「アメリカのせい」で済まされている。その意味で、この映画は「アメリカのおかげ」で成り立っているとさえ言える。
怪物対軍隊(警察)という話になると、実写映画では予算的に困難になる。だから必然的に、怪物対少人数の集団の話になる。(ここで少人数の集団は、公的に認可された権利をもたないので、怪物と同時に公的なものとも戦うハメにもなる。)
パトレイバーはとても丁寧につくられてはいるが、ドラマが過剰であり、それがやや鬱陶しいのと、過剰なドラマが必然的に紋切り型を引き寄せ、アニメとしての表現力を弱めてもいる。(ただ、ベテラン刑事の描写などはけっこう凄い。杖で橋の欄干をガンガン叩くところなど、おーっと思った。)「グエムル」は、物語の構えを単純化することで、むしろより多くのものをそのなかに含み込むことに成功しているように思う。