●立川シネマシティ・シネマ2で、『エヴァンゲリヲン新劇場版・破』。シネマ2はこのあいだ福永さんのイベントがあったオリオン書房ノルデ店のすぐ裏。上にモノレールがはしる。
『序』は、ぼくには、『エヴァ』の面白いところのことごとくが洗い流されてしまったかのようで、全然面白いとは思えなくて、最近、この『破』を観る前の復習としてDVDで観直したのだが、やはりまったく集中出来なくて、途中で飽きてしまった。それに比べれば『破』はずいぶん面白いとは言える。いきなり新らしいキャラクターが出てきて、まったく違う方向に物語が進んでゆくのかと思えば、必ずしもそうではなく、オリジナル版の展開をふまえつつ、しかしそれを異なるものとして反復する。それは何と言うか、かなり考えて作り込まれたことがわかるような、各方面に向けての配慮も抜かりない展開で、それだけでなく、細部にまでわたって、とても気合いのはいったつくりになっているとは思う。とはいえ、これはあくまで、まったく面白いと思えなかった『序』から、もしかしたら面白いものになるのかもしれないと期待させる『Q』との間の、移行期というか、橋渡し的なもので、この作品単体として、何か言うのはとても難しい。問題なのは、この先、いったいどんなところまで連れて行ってくれるのか、というところにある。
ネタバレ含みでざっくりと言えば、ラストでは、人間の意思やコントロールを超えた、いわば世界そのものの原理が作動してしまったかのように暴走する(つまり人間を超えた世界の法則そのものの体現であるような)エヴァがあり、しかしそれが何故か、シンジ自身が自らの欲望を解放して、欲望の対象を抑制することなく掴み取ろうとする行為とぴったりとシンクロしてしまい、つまり世界全体とシンジとがそこでぴったりと重なり合い(そこでサードインパクトが…)、しかしさらに、その出来事全体が、既に父によって予測され、謀られていたことでもある、ということがほのめかされる(さらに、それが既に複数回反復されたものであることも、ほのめかされる)。この『破』という作品全体としては、それぞれの人物や組織が「たったひとつの世界」を共有しつつも、それぞれ相容れない異なる目的(欲望・策略)の元に動いていて、つまり、お互いがお互いを完全に「手段」として用いるかのように行動している。同じひとつの事柄が、まったく異なる動機をもつ人物たちの行動の折り重なりによって成立しているのだが、それを成立させている存在たちは、それぞれ、自分の目的のために他者を手段としているという風に「意識して」いる。父も、新キャラも、渚カオルも、ゼーレも、自分たちこそがすべてを掴んでいて、最終的には他者をあざむいて自らの目的を達することが(世界の法則を自分の欲望に従わせることが)出来るのだという前提で、この世界というゲームに参加しているかのようだ(ミサトやアスカが、彼らの矮小バージョンのようにさえ見えてしまう)。主人公のシンジは、それら全てのプレイヤーの共通したコマであり、そこではシンジ自身の欲望もまた、プレイヤーによって利用されるしかないかのようである(人類の存続などという大義名分は、誰にとっても信じられていないかのようですらある)。と同時に、しかし、世界の法則と自らの目的とを一致させるためには、必ずシンジの能力(欲望、感情)を利用しなければならず、その意味ではプレイヤーたちは皆シンジに依存しているようでもある。そのような世界のなかで、エヴァに乗る三人の子供たちだけが、辛うじて人間的な「愛」の萌芽(他者を手段としてのみではなく、目的としても扱う)を体現しているかのようだ。
このような世界像は、よく考えられていると同時にありふれてもいる。実際、ぼくは映画を観ながら、「いったいぼくは何故、四十過ぎてもまだ、この『エヴァ』という作品と付き合い続けているのだろか」という根本的な疑問が浮上するのを押さえられなかった。別に悪い作品じゃないと思うけど、これはぼくにとって必要なものなのだろうか?、と。この後につづくはずの『Q』が、例えばディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の終盤のめまぐるしい反転のような、人間という存在の在り方の根本を揺るがすようなすさまじい展開になるというような可能性はあるのだろうか?、と。
「新劇場版」シリーズで面白いのは、オリジナルシリーズとは、同一キャラクターでも別人みたいに皆マイルドになっているというところだ。シンジはごく普通の気の弱い少年みたいになっている。だいたい、シンジがみんなのためにお弁当をつくるとか、アスカがすんなりとレイにシンジを譲るとか、レイがゲンドウとシンジとを仲介しようとするとか、オリジナルシリーズでは考えられない行動だろう。つまり、同一キャラクターなのに「キャラ」が違う、「キャラ」が違うのに同一キャラクターである。キャラクターの年齢は同じなのだから、それをキャラクター自身の「成長」とみるわけにもいかない(だからそれを「作家の成長=変質」とか、製作された時代の変化=ゼロ年のなんとか(!)みたいなものとしてみるしかなくなる)。それは、いったんキャラクターとしての固有性が成立してしまえば、かなりの幅で「キャラ」がかわっても、人はそれを「同じ人」として受け入れるということで、つまり、固有性とは内容のないただの「しるし」であり、かなりの幅で「内容(内実)」の変更に人は無頓着だということだ。それは、固有性とは「存在論的」なものではなくて「機能的」なものだ、ということでもある。「これはシンジだ」というしるしがどこかにありさえすれば、それは「シンジ」として機能するのだ。絵柄的には、アニメのキャラクターが決して歳をとらないということは、ここではとても重要な要素となるだろう(ハリー・ポッター神木隆之介とは違う)。だからこれは、そのような意味でのアニメのキャラクターの普遍(不変)性に寄りかかった、オリジナルと同じ制作者による二次創作のようなもので、その点が、「作品」としてはどうも乗れない、という感じに繋がるのかもしれない。異なる俳優によるリメイク=再演だったら、また違うのかもしれない。勿論、今ある世界(出来事)が、すでにあった世界(出来事)の、複数回目の反復であることがにおわされているこの作品世界では、作品そのものがかつてあったものの二次創作であるかのようだ、という事柄自体は、作品それ自体によって事前に織り込み済みなわけだが。でも、そのような主題はオリジナルの『エヴァ』にはなかったものなのだから、それは、エヴァというブランドに頼らず、新たな別の作品として展開されるべきではないのだろうかという気もする。あるいは『エヴァ』の後日潭として(「狙い」としては、後日潭にしないところにこそ「意味」がある、というのは分かるのだが)。そこらへんが、「新劇場版」シリーズに、いまひとつ乗れない理由なのかもしれない。