●きれいなエメラルドグリーンのトンボと見つめ合った。たぶん、アオイトトンボではないかと思う。住宅の塀にとまっているトンボにかなりの至近距離まで顔を近づけ、じっくりと見た。指で羽を挟んで捕獲しようとしたのだが、失敗して逃げられた。
中学の時の友人でムシトリと呼ばれていた奴がいた。ムシトリは知的な障害があって特殊学級にいた。ムシトリには特別な能力があって、飛んでいるトンボや蝶々を人差し指と中指だけで羽を挟んで捕獲することが出来た。顔の前にいる虫を払いのけるように腕をすっと振ると、ムシトリの指の間には飛んでいた虫が捕獲されているのだった。勿論、ムシトリという呼び名はそこからきていた。そもそもムシトリの本名を知らなかった。ムシトリは悪いガキ達にからかわれたりバカにされたりしながらも、その能力から一目置かれてもいた。ムシトリにその捕獲のコツを教えてもらいもした。ぼくには、とてもムシトリのように飛んでいる虫は捕まえられなかったが、とまっているトンボならば、指二本で捕獲できるようになった。コツをつかめば、拍子抜けするくらいに簡単にトンボは捕れた。
今日、塀の上にトンボがとまっていた。少しずつ近づいて行った。逃げられないようにそおっと移動した。アオイトトンボは逃げなかった。ぼくは目が悪いので、かなり顔を近づけて、じっくりと見た。青い目がとてもきれいだった。見ているうちにムシトリのことを思い出して、トンボを指二本で捕れるような気がしてきた。捕獲までの手と指の動きを完全にイメージとして思い出せた気がした。あとはタイミングだけだと思った。よし、と思って、さっ、と、手を動かした。かすりもしなかった。アオイトトンボは逃げた。
●前を軽トラックがゆっくり移動している。動かなくなったバイク、スクーターのバッテリーを無料で回収いたします、写らなくなったテレビ、液晶モニター、壊れたパソコンを、無料で回収いたします、お気軽にお声をおかけください、使わなくなった自転車、凝れた冷蔵庫など、無料で回収いたします……。スピーカーから声が出ている。ちょうどぼくが歩く速度と同じくらいで、五、六メートル先を行く。ゆっくりとはしっているため、排気口からは白い煙が出ていて、排気ガスの強い臭いがぼくに当たっている。速度が同じなので、距離もかわらず、ぼくはずっと排気ガスを浴びている。子どもの頃、排気ガスをいい匂いだと思っていた。自動車の後ろにまわって、わざわざ匂いを嗅いだ。特に、ディーゼル車の排気ガスがいい匂いだと思った。親に言うとしかられるので、黙ってこっそりと嗅いだ。歩きながら延々と排気ガスを臭いを浴び、子どもの頃の、これをいい匂いと感じたその感じが、もう少しで思い出せそうだった。でも、最後のところで、身体に感じるダメージ感が勝ってしまう。ネガティブな感覚が作動して、あの「甘い感じ」が蘇らない。軽トラックはまっすぐ進み、ぼくは角を曲がった。

ある雑誌のエヴァンゲリヲン特集のために「エヴァ破」についての原稿を書いたのですが、その雑誌の特集企画そのものがポシャってしまいました。せっかく書いたので、この日記のスペースを借りて掲載したいと思います。三十枚くらいの原稿なので、三回くらいに分けます。


反復という呪い、永遠という呪い、キャラクターという呪い(1)


古谷利裕


アニメのキャラクターは歳をとらない。のび太もカツオもまる子も、永遠に小学生だ。まるで、死んでしまった人がそうであるように、いつまでもかわらない。安達祐実神木隆之介が、成長する姿をテレビ画面やスクリーンに刻みつけ、我々と同じ時間の流れのなかに存在し、その過去の映像と現在の姿との落差によって時間を表象するのとは異なり、十四歳で亡くなってしまった人が永遠に十四歳のままであるように、シンジもレイもアスカも十四歳のままでフリーズされている。彼らは時間の外にいて、それを観た観客は、彼らを置き去りにして歳をとってゆく。あるいは、彼らは我々を置き去りにして永遠の十四歳を生きる。
だが、十三年前に熱中して観ていたテレビシリーズを、十三年後にDVDで観直すというのであれば、十三年前に撮った写真をアルバムで見るということとあまりかわらないだろう。十三年前に観た十四歳のシンジは、それを熱中して観ていた頃の自分を思い出させ、それを改めて観直して感じる感想は、以前の自分と今の自分との差異を、そこに流れた時間を感じさせるだろう。それを感じさせるのは、十三年前に撮った写真が十三年前の映像を保持しているのと同様に、「作品」が十三年前と同じものであるということによるだろう。しかし、十三年後にあらたにつくられた新作でも、当時十四歳だった登場人物たちは、かわらずに十四歳なのだ。時間のなかで生き、歳をとってゆくことを強いられた生身の人間である観客は、永遠にかわらず、そのままの姿で「現在」に現れてくるキャラクターの不動性を、どのように受けとめることが出来るのだろうか。


エヴァ』のオリジナルのテレビシリーズには。明確に年代が書き込まれていた。物語の現在は二〇一五年であり、セカンドインパクトは二〇〇〇年の出来事である。逆算すれば、シンジが産まれたのは二〇〇一年となり、もしシンジが実在するとすれば、今年八歳になるはずだ。この年代は、テレビシリーズが製作された時には近未来であり、未だ訪れてはいない時間、不定形の時間であるから、そこにフィクションがひらかれる余地があった。しかし、現実の時間はフィクションの時間を追い越してしまった。現実には二〇〇〇年にセカンドインパクトは起こらなかったし、現在まだ、第三新東京市など実在しない。
フィクションのなかに年号が書き込まれること。それは、フィクションに、その外側にある現実との参照関係が生まれるということだろう。ナチスは一九三二年に第一党となり、翌年、ヒトラーはドイツの首相となった。これは歴史的な事実である。フィクションがこの事実をその内部に含み込むという時、それはその時代に起きた出来事、風俗その他を、背景として利用することが出来るのと同時に、その歴史的な事実の多くを受け入れることが強いられるということになるだろう。フィクションが、歴史的事実として承認され記述されていることの全てに束縛される必要はないが(それではフィクションではなくなってしまう)、大筋としてその背景を受け入れることは求められるだろう。例えば、一九三三年に、もしヒトラーが首相にならなかったとしたら、というフィクションを成立させるとしたら、そのような大きな歴史的事実の変更は、それ以外の事実により強く従属するという結果を招くこととなろう。そもそも、そうでなければ、歴史的な事実を参照した思考実験としてのフィクションの意味がなくなってしまうからだ。一九三三年にヒトラーが首相とならなかった「もう一つの世界」の可能性を探るというのならば、「それ以外の条件」は、出来るだけ現実と同じものとしなければならないだろう。フィクションが現実の歴史的事実を内包する時、そこには必然的に歴史的事実(とされるもの)に対する責任と、政治的な立場が生じる。
二〇〇九年である現在、『エヴァ』の物語が再び語られるとするならば、それは二〇〇〇年にセカンドインパクトが起こったというこの世界とは別の「もう一つの世界」の物語とならざるを得ない。物語の現在であるはずの二〇一五年は未だ近未来であるが、その重要な背景となるセカンドインパクトの起きた年は、既に過去となってしまっているからだ。なにより物語上では、シンジもアスカも既に産まれて、現在どこかに存在しているはずなのだ。しかし、そのような現在にきわめて近い近未来のパラレルワールドという設定に意味があるとしたら、その物語それ自体が、現在の現実的状況ときわめて近い設定で、しかしそのどこか一部が異なっているという時に限られるはずではないか。だが、『エヴァ』はそもそもそのような話ではない。もともと、『エヴァ』には具体的な年号が書き込まれる必然性などなかったのではないか。シンジが産まれたのが二〇〇一年であることの必然性は、たんにそれが二十一世紀の最初の年であり、『エヴァ』が製作されたのが二十世紀であること、つまそれが「次の世紀」であり、彼らが「新しい世代」であるということにしかないだろう。しかし、オリジナルであるテレビシリーズでは、実際に年号が書き込まれてしまった。書き込まれてしまった以上、現実の時間との対応関係が生まれてしまう。


だから「新劇場版」では具体的な年号はどこにも出て来ない、ということであれば話はわかりやすいのだが、しかし、きわめて目立たない形でつつましくではあるが、書き込まれてしまっているようだ。それは「破」で、シンシとゲンドウがユイの墓参りに行く場面にみられる。
オリジナル版でも新劇場版でも、ほぼ同一のカット割りで進行するこの場面で、違っているのは墓の形状だ。オリジナル版ではプレート型をしていた墓は、「破」ではポール型である。オリジナル版のプレート型の墓には、はっきりとそれを示すようにユイの生没年が「1977-2004」と記されているのが見える。しかし、ポール型の墓石には生没年は書き込めず、それが書き込んであるらしい地面に埋め込まれたプレートは、手向けられた花束で隠されていて頭の「20」までしか読み取れない。ここでは、この『エヴァ』の物語が二〇××年の出来事であることしか示されない。わざわざ墓の形状が変えられたのは、年号を見えなくするためだ。当初、そのような認識でこの原稿は書き始められた。しかしその後編集者から、そのプレートに、見えにくいが、しかししっかりと2004と読み取れるように年号が書き込まれているという指摘を受け、筆者もそれを確認した。生没年は「見えにくく」なったが「消された」わけではなかった。つまり、2009年に製作された新劇場版もまた、オリジナルと同一の2015年の話であることは変わらないらしいのだ。


ところで、『サザエさん』のテレビアニメシリーズの放送がはじまったのは、一九六九年である。そしてその年からカツオはずっと小学5年生であり、一一歳である。その世界では、基本的に時間は流れていない。よく言われるように、家電製品などのマイナーチェンジがみられるが、しかしそれはまさに時間が流れていないことを示すためのものだ。舞台は常に、ここではないどこかでありながら、決して遠く離れた場所であってはならず、「昔」だと感じさせてはならない。神話的な世界ではなく日常的な世界が舞台である『サザエさん』においては、それが「時間の外」に位置するためには、常に現在からの視線にとって違和感がないようにするための不断の変化が求められる。そのような世界のなかで、カツオは呪われたかのように永遠に一一歳でフリーズされている。対して、『ちびまる子ちゃん』の世界では事情が異なる。その世界は昭和三十年代の記憶によって構築されており、それはごく大雑把に「昭和的」と称されるノスタルジーを喚起する世界だ。それは厳密に考証された昭和三十年代ではなく、イメージとしての「昭和」であろう。だからそこでは、一見日常的世界が舞台とされているようでいて、実は神話的世界が舞台となっていると言えるだろう。『ちびまる子ちゃん』の登場人物たちが、『サザエさん』のそれに比べてもずっと類型的であり、役割的であること、つまり、キャラクターの固有性が希薄である理由は、そこにあるように思われる。まる子の呪いが、カツオのそれに比べれば軽度のものであるように感じられるとしたら、まる子が徹底して類型的なキャラクターであり、人物と言うよりも人物以前のもの、その原型とか雛形のような存在であるからだと言えるだろう。
永遠に時間の止まった『サザエさん』の世界でも、季節は移り変わる。春は夏になり、秋は冬になる。しかし、次の年は決してやってこない。来年が今年になり、今年が去年になることはなく、来年は永遠に来年でありつづけ、去年も永遠に去年でありつづけるだろう。『サザエさん』の世界の外では時間は流れる。カツオの声を担当する声優は、大山のぶ代から高橋和枝に、そして冨永みーなへと移り変わるが、声がかわろうとカツオはカツオであり、一一歳のままである。『サザエさん』の外の世界では、四十年以上の時が流れたが、一週間に一度の間隔で繰り返されるその内部の世界では、時は止まったままだ。
エヴァ』が『サザエさん』と異なるのは、それが一旦完結して十年過ぎた後に(「Air/まごころを、君に」の公開は九七年、「新劇場版・序」の公開は二〇〇七年)、とつぜん反復されたということだ。それは『サザエさん』のように、毎週律儀に反復されているわけではない。『サザエさん』の無時間性を支える重要な要素の一つとして、それが(その外部の流れる時間のなかで)一定のリズムを保ちながら反復されているという点があるだろう。それは、(時間の流れる)現実世界のなかに一定の場所を確保された無時間なのだ。本来、無時間は、時間の流れる現実世界のなかに場所をもたないはずなのだが、一定の間隔を置いた機械的反復の持続が、不規則に変化する「この現実」のなかで特別な位置を作り出し、それを現実のなかに登記可能にする。『サザエさん』が毎週つづいている限り、わざわざ、今日、これが反復される必然性はどこにあるのか、と問われることはない。しかし『エヴァ』は、その間をあけた唐突な回帰によって、「何故、今」と問われることから逃れられない。『エヴァ』の回帰は、道頓堀からのカーネルサンダースの回帰のように唐突であり、不条理である。それは、本来オリジナルの『エヴァ』が持っていた特徴を裏切るものですらあるように思われる。しかし本当にそうなのだろうか。
(つづく)