●昨日の夜中に「ワンダー×ワンダー」の総集編の再放送があると思っていた。この番組でやっていた結晶洞窟というのがとにかく凄いという話を聞いていて、その話を聞いたすぐ後に総集編の放送があるという話まで聞いていたのだが、放送の日、ぼくはダンスの公演を観に行っていたのでそれを観ることが出来ず、ただ、その前日に番組宣伝でほんの数秒流れたスポットで結晶洞窟の映像を観たのだが、それはもう冗談みたいに凄い光景で、今、自分が見たものを本当に自分は「見た」のだろうかと、画面が消え去ってしまった後では疑わしく思ってしまうくらいに凄いのだった。で、「ワンダー×ワンダー」には再放送枠があって、土曜の放送の翌週の水曜の深夜に再放送されるという情報をネットで知った。総集編の放送は先々週の土曜で、先週の再放送枠の時間はウィンブルドンの中継で潰れたから、きっと今日が総集編の再放送だろうと思い込んでいて、ぼくは新聞とか取ってないから、昼間コンビニでテレビ雑誌を立ち読みして確認したら、細かい内容は何も書かれてなかったけど確かに「ワンダー×ワンダー(再)」とは書かれていたはずだった。で、十二時四十五分にNHKを観たらドラマをやっていた。きっと野球放送か何かで時間がズレたのだろうと思ってドラマを観ていたのだが、そのドラマがまったく面白くないので、ツタヤの半額レンタルで借りてきた『神霊狩』のDVDを観つつ、五分刻みくらいでNHKを確認するのだが、ドラマはいつまでも終らず、ドラマが終った後にも、そのドラマのそれまでのダイジェストみたいなのがつづき、その間に『神霊狩』を最終話まで観てしまった。そして、やっとドラマが終ったと思ったら(この時点で既にかなり雲行きが怪しいとは感じていた)、まったく別のドキュメンタリーがはじまった。
●で、何の話がしたいのかと言えば『神霊狩』の話だ。今のぼくには『エヴァ』よりもこちらの方が断然面白い。このアニメでは、「言説」として、いかにもそれらしく(というよりあまりに過剰に)脳科学だとか民俗学だとかオカルト的な疑似科学みたいなものとか、そういう理由付け(言い訳)がいっぱい動員されていて、さも大袈裟な話かと思うのだが、結局、実際には、ある特定の地域のなかで、いろんな人に、いろんな不思議なことが次々起こる、というだけのことなのだ。つまり、理由付けが過剰であることで、逆にその一つ一つの理由の説得力や重さがどんどん軽くなって、けっきょく「我々にはよくわからない、この世界の秩序のようなものがあるとしての話だが…」みたいな、もやもやした、理由にならない理由しかないことになってしまう。それは、何かしらの秩序があるらしいことは予感されるものの、誰もそれを明確には掴めないということだ。特に最終話など、あれだけ大風呂敷をひろげておいて、落としどころがそこなの!、と笑ってしまうような、疑似クライマックス(宗教団体から囚われた少女を救い出す)で無理矢理話を終らせる。最後にみんなで笑って大団円、みたいな。そこでは本当は(現実が常にそうであるように)何も解決などしていない。でも、確実に、全22話を通ってきた登場人物たちそれぞれに、何かしらの微妙な変化は訪れているのだ。
登場する少年たちには皆、なにかしらの外傷があり、それは「よくあること」とは言えない深刻なものなのだが、だからといって少年たちが何か突飛な行動をとるというわけではないし、特異な精神状態にあるというわけでもないようだ。まあ、「難しい年頃だよね」とか「思春期の子供の考えてることはよく分からないところがあるよね」とか、そういう程度のことだ。舞台となる田舎町には、いろいろな因縁がありそうだし、あやしげな宗教団体があり、何を研究しているのかよく分からない巨大企業のプラントがあり、そこにはいろんな陰謀が渦巻いてもいそうだ。神社には神懸かりの少女もいる。東京からわざわざやってくる心理学者がいて、企業のプラントに関わっているらしい謎のエリート女医がいて、全国を渡り歩いている山伏のような爺さんとか、昔、大学で民俗学を教えていたという神主もいる。彼らは皆、ここには何かがありそうだという予感のものとに集まっているのだが、誰一人としてその「何か」の全貌に迫る者はいない。とはいえ、互いに異なる体系の「知」を交換することで、自身を僅かに変質させることはする。この、脳の内側と外側とが繋がることで「出口なし」のような感触が濃厚に漂う物語世界で、他者との接触による僅かな変化の連鎖があり得るのだということこそが最も重要な主題だとさえ言えそうだ。何かしらあやしげな気配の漂う地域に、あやしげな人たちが集まってきて、確かにあやしげなことが次々と起こるのだが、それは決して、世界を根本的に変えてしまうような事ではなく、あやしげな事柄に巻き込まれる少年たちも、いろいろ波風はありながらも、決定的に「向こう側」へ行ってしまうことはなく、なんとか普通の生活はつづけていられる。しかしそのようななかでこそ、重要なことが「見えない場所」で、「見えない速度で」徐々に進行している。この「見えない場所」とは、この物語上で形象化される「隠り世」とか「抽象界」とかの「向こう側」のことではなく、物語上でさえも見えない、もっと抽象性の高い何処かである。
登場人物のそれぞれが、いろいろ大変なことを抱え、しかもあやしげな事柄に直面するのだが、それは日常生活からほんの少し(いや、少しではないのかもしれないが)浮き上がるだけで、表面的には世界をほとんど変えはしない。外側からみたら、大して代わり映えしない田舎ののどかな生活が続いているだけにしか見えない。十一年前に誘拐事件があり、最近では、企業のプラントに出入りしていた産業スパイらしい人物の死体がダムに浮かんだ。心中事件があり、男性が死に、女性が生き残る。そして、村の宗教団体が代替わりした途端に、新たな教祖によって一時的に活性化された。『神霊狩』で起こる事件は、外側から眺めればこんな程度のことだ(いや、充分にいろいろ起きているのだが)。「人類補完計画」みたいな大袈裟な話はないし、「逃げちゃ駄目だ」と強迫的に呟く少年もいなければ、世界を破滅に至らせるほどのディープなインパクトもない。派手な爆発も、使徒の奇抜なデザインもない。これみよがしの萌えキャラもいない。アニメとしてあまりに地味すぎる。しかしそれでも、『神霊狩』の方が、『エヴァ』よりも、ずっと遠くへ、深いところへ、より抽象的なものへ、と、届いているように思われる。
最終話までずっと一貫して、物語は展開も盛り上がりも深まりもさしてみせず、淡々と不思議なことが起こりつづけ、その不思議なこと同士の関連が、少しずつ繋がって密になってゆく。それにによって、何かが見えないところで確実に動いてゆく。だいたい、物語というのはどこかに収斂される必要があり、その途中でいかに面白くても、その収束点はたいがい人をがっかりさせるものでしかない。だがこのアニメでは、本当に終る直前まで、物語は収束の気配を見せず、かと行って過剰な盛り上げもなく、淡々と進む。『エヴァ』みたいに、へんな音楽の使い方をして人の感情を無理矢理動かそうとはしないし、その必要もない。いや、『エヴァ』だって別にそんなに悪くはないのだけど。『エヴァ』の新しいシリーズも、映画としてではなく、22話くらいかけでじっくり語られるテレビシリーズにすれば、もっと面白くなったのかもしれないと思った。