●昨日観た小林耕平に早速影響されて、散歩しながら、デジカメの動画モードで動画を撮影してみたりする。とはいえ、小林耕平の作品とは似ても似つかない、たんに、デジカメで、数十秒持続するだけの映像を撮って、それをデジカメのモニターで再生して見る、というだけのことなのだが。
それにしても、一枚の写真というものが、断片でありながら、その不動性によっていかにも堂々と存在しているのに比べ、ほんの数十秒しか持続しない動画の、なんと弱々しく、頼りないことだろうか。その内部に時間を含んでしまったばっかりに、数十秒の映像は、ほんの数十秒で消えてしまう。時間のある世界のなかで、あるフレームにくくられた時間のない世界である写真のもつ力に比べ、時間のある世界のなかで、フレームにくくられた時間のあるものとしての映像は、映像以外の他の「時間のあるもの(つまりすべてのもの)」と何らかわりはなく、しかも、一定の不動性を保っている「もの」とは違ってほんの数十秒が過ぎると消えてしまうから、あまりにも弱々しい。しかしそのかわり、植物が風で揺れるとか、フレームを唐突に自転車が横切るとか、人がこちらへ振り向くとか、フレームそれ自体が揺れるとかいう「出来事」が記録される。
映画で、あるシーンを構成するために配置された一つのカットというものとは異なる、あるいは、それ自体として「一つのシーン」としての自律性をもつ長回しのカットとも違う、他とのつながりを断ち切られて、ただ「それ」としてだけ存在するほんの数十秒の持続。徹底的に断片でしかない何か。デジカメのちっちゃなモニターに、ぱっと現れて、すっと消えてしまうイメージ。そういうものだけがもつ、特別な何かというものがあるような気がする。それは例えば、リュミエールから見てとれることであり、メカスから見てとれることでもあるが。

一昨日からの続き。今日でおわりです。


反復という呪い、永遠という呪い、キャラクターという呪い(3)


古谷利裕


「新劇場版」が、2009年である現時点ではもはや外的現実との対応関係として適当ではなくなってしまった具体的年号を(密やかにではあっても)作品に刻み付けなければならなかったのは、「母の呪い」を解除するためには、その呪いの場所にまで遡行してそれを解く必要があったからではないか。母の痕跡は、それが刻まれたオリジナルな時間にまで遡って消去されなければならない。だからこそユイの没年が2004年とはっきり記されなければならなかった。しかしだとするならば、この(作品の外の)現実世界でも、セカンドインパクトは既に起きてなくては物語がなりたたないことになってしまう。しかし「(現実の)この世界」では未だセカンドインパクトは起きていない。もはや二〇〇〇年が近未来ではなくなったこの世界で、二〇〇〇年にセカンドインパクトが起こったという前提のフィクションを成立させるとすれば、その時は「世界そのもの」を分裂させ、二〇〇〇年にセカンドインパクトが起こったもうひとつの世界を想定するしかなくなる。つまり、すでに起こってしまった過去の出来事(母の呪い)を改変するとしたら、当然そこにはタイムパラドックスが生じ、別のものになった二つの現在を同時に存在させることになってしまう。
だが、そこで簡単に並行世界や可能世界論のようなものとして処理してしまうのはあまりに退屈ではないだろうか。それでは、世界を分離させずにはおかない感情の強い力(つまり呪い)の存在、その必然性、そこで生じる強い衝撃や摩擦や抵抗をかき消してしまうことになるだろう。この作品の力は、世界を分裂させなければ解決不能であるほどの、強力な呪いにこそ由来する。


『新劇場版・破』でもっとも興味深いのは、母の力の後退そのものであるよりも、その結果としてもたらされた、キャラクターの性格の著しい変化にこそあるように思われる。シンジ、レイ、アスカの三人は、まったく別人のようだとまでは言えないにしろ、まるで人がかわったかのようだ、とは言えるかもしれないくらいに変化している。変化そのものが重要なのではなく、著しい変化にもかかわらず、ギャラクターとして「同じ人物」であるということ、それが許容されるというところが興味深い。
実際、キャラクターというのは、どのくらいの変化に耐えて、その同一性を維持するのだろうか。例えば、ドラえもんやカツオは、声がかわっても、ドラえもんでありカツオである。『ジャングル大帝』のレオは、フィクションとしての世界を飛び出して、プロ野球の球団マスコットになってもレオである。レオが二次元から着ぐるみとなって三次元化しても、綾波レイがフィギュアとして三次元化しても、レオでありレイである。新劇場版においてアスカの姓は、惣流から式波へと変化しているにもかかわらず(固有名に変化があるにもかかわらず)、アスカはアスカである。キャラクターはそもそも、特定の時間や空間に囚われない。それが生み出された母体である作品から切り離され、マスコットとなり、二次創作のネタとなり、さらに、サザエボンやアムロ波平など、まったく出自のことなる別のキャラクターと融合されることさえあり得る(それでもなお、同一性を保っている)。
では、視覚的な類似性が認められれば良いということなのだろうか。だが、絵の下手な人が描いた、まったく似ても似つかないシンジであっても、これはシンジだと言い張ればシンジなのかもしれないのだ。あるいは、アスカが極端にデフォルメされて描かれたとしても、まったく似ても似つかない人がコスプレしたとしても、髪の色等、どこかでそのキャラとわかる「しるし」が認められれば、それはアスカであろう。キャラクターの同一性では、絵(イメージ)としての質など問われることはない。このような融通性の高さは、キャラクターという強い力のもつ自由さであると言えるのか、それとも、多々の変化にも関わらず、そこに共通した固有性が認められてしまうほどに強い「呪い」のもとに束縛されていると言うべきなのか。
このような、キャラクターというものの極端なまでの融通性こそが、『エヴァ』という物語の反復的な語り直しを、つまり世界の分裂を可能にしているとさえ言えないだろうか。オリジナル版+旧劇場版と新劇場版とでは、大筋で「同じ話」として進行している。しかし「全く同じ話」ではない。例えば、何度も映し出される教室のプレートは、オリジナル版では「2-A」だが新劇場版では「2年A組」となっている。レイの台詞、「ありがとう、感謝の言葉、はじめての言葉」は、オリジナル版でも新劇場版でも「まったく同じ言葉」として共通しているが、それが使われる場面(位置)が異なる。あるいは、前述した、シンジとゲンドウがユイの墓参りに行く場面は、構図やカット割りまで含めほとんど同一の場面として反復されるが、墓の形状が異なる。さらに、オリジナルではこの場面はアスカの登場以後なのだが、新劇場版では登場以前だ(ここでも同一物の位置の変化がある)。エヴァ三号機が使徒と化してしまうというエピソードは共通しているが、その時に乗っているパイロットはトウジからアスカにかわっている。オリジナル版では存在しなかったキャラクターが新劇場版には登場している、等々。だがそもそも、同じ世界の、同じ話が、新たなものとして語り直されると言う時、その基底である「同じ世界」であることを(二つの作品の「重なる」部分こそが基底となっていることを)保証している主な力は、オリジナル版でも新劇場版でも、物語がどちらも同じキャラクターたちによって演じられているという事実なのではないだろうか。
オリジナル版と新劇場版は、二枚同時に並べられたそっくりなタブロー(「間違い探し」のようなもの)とは異なる。それは、どちらでもあり得たという二つのバージョン(同価的な反復)ではない。それは同時にあたえられたものではなく、あくまでも最初にオリジナル版がつくられ、その作品の持つ強い力の作用として、当初は予定されてはいなかったはずの新劇場版が(作品の完結から十年後に改めて)つくられた。その時間的順序は交換不可能である。オリジナル版がヒットしなければ、新劇場版(並立世界)はそもそも存在しなかった。キャラクターを立ち上げ、呪いを刻み、その固有性をつくりだしたのは、あくまでオリジナル版の作品としての力である。オリジナル版と新劇場版は、同等なものとして比較出来可能なものではない。
だが、一度成立してしまったキャラクターの固有性は、その後、その居場所がかわっても一定の力を発しつづける。作品そのものを起動させ、持続させるモチーフや内在的な力や秩序に対し、キャラクターは自律した過剰な何かであり、作品から外在化されてしまったとしても存続する。キャラクターの自律性が、作品の内部に外的な力を招き入れて、別物にしてしまうことさえあり得る。作品そのものに対する、キャラクターの優位というのは、確かにあるようなのだ。もしかすると、キャラクターに刻まれた「永遠という呪い」とは、このような力のことなのではないだろうか。だとすると、シンジに刻まれた呪いは「キャラクター」が必然的に持つものであって、必ずしも母性的な力の作用だとばかりは言えないのかもしれないのだ。
(おわり)