●同じジャンルで、とても近い位置にいながらも、微妙なところで決定的に異なる二つのビックネームを出してきて、その差異について述べることで、何か、普遍的な世界の原理を説明するかのようなレトリックというのがある。例えば、マティスとピカソだとか、ジョンとポールだとか、カントとヘーゲルだとか、アドルノとベンヤミンだとか、ゴダールとストローブ=ユイレだとか、王と長嶋だとか、谷崎と漱石だとか、オザケンとコーネリアスだとかのペアを主題にして、そのレトリックは使われる。多くの場合、それを述べる者が、その両者のうちの一方を支持する立場にあって、一見その両者の差異をクールに分析しているように見えて、実ははじめからどちらか一方に対する強い思い入れが「確定」していて、だからそれは、世界の原理を説明するかのような口調でありながら、実は自らの立ち位置を正当化し、その正当性を他人に対して説得しようとするレトリックに過ぎないのだ。(リシャールを擁護するためにジジェク=ラカンを批判する、とか。)このようなやり方は、レトリックとしても安易で(しかし妙に説得力というか「効果」があるのでぼく自身もついついこのような「やり方」にハマってしまいがちなのだが)、思考としては知的とはおよそ言えないような粗っぽい二項対立の図式でしかなくて、結局は「あちら側(敵)」と「こちら側(味方)」とを分ける幼稚な政治性が発動されてしまうようなもので、「キミは家康タイプなのかも知れんが、ワシは信長タイプなのだよ、ガッハッハッ」と言うようなオヤジと基本的にまったくかわりはない。
(例えば、マティスの特徴について説明する時、その特徴をわかりやすく浮かび上がらせるために、その対照としてピカソをとりあげる、というようなやり方は必ずしも上記のものと同じではなくて、ある程度は有効であるように思う。この時ピカソは、マティスを説明するための道具のようなものに格下げされてしまうのだけど、しかしそれによってマティスとピカソとが置かれる次元にズレが生じるので、単調な二項対立的世界観には陥りにくい。つまりマティス原理とピカソ原理とが、対立する、相容れないものとして対置されるのではなくなる。問題なのは、二項対立的な図式が必然的に孕んでしまう排他性であり、そのような排他性=政治性によって生じる思考停止なのだ。しかし、人はなぜ、ものごとをあちら側とこちら側とに分けるような排他的言説に対して、いとも簡単に興奮してしまうのだろうか、と思う。人が自らの「立ち位置」を、「自らを支える」ための「幻想(理念)」のひとつとして利用するからなのかもしれないが。)