●最近、夜8時か9時頃にはもう眠くなってしまって、朝3時過ぎには目が覚めてしまう。今日は4時過ぎに目が覚め、しばらく、もっと眠ろうとしてみたのだが眠れず、仕方なく起きる。昨日の分の日記を書いて、しばらくネットをみていた。朝食をつくって食べてから、唯野未歩子『三年身籠る』をDVDで観る。再び、ネットをのぞいてから風呂に入り、昼食にははやいし、昼食とは言えないようなものを軽く食べてから出かける。近所のツタヤでDVDを返却し、郵便局に寄ってから、電車に乗る。運良く座ることが出来たので、鞄のなかから本をとりだすものの、はやく起きると昼頃に眠くなるもので、1ページも読まずに、うつらうつらしてしまう。
銀座のすどう美術館で、上田和彦の絵を観る。上田さんと話す。そのあと、いくつか画廊を観てまわる。八重洲ブックセンターに寄って、阿部和重の『ミステリアスセッティング』と、佐藤弘の『オブラディ・オブラダ』を買う。ブックセンターの喫茶店で、『オブラディ・オブラダ』を読み始める。「フルヤくん」と「陽子ちゃん」の話っていうだけで、ちょっと他人事とは思えない。1ページのなかに何度も、「フルヤ」とか「古谷」とかいう文字が出てくると、妙な気持ちになる。自意識っていうのは厄介なもので、その度に軽くドキッとする。ふたたび電車に乗って桜木町へ。急な坂スタジオで、岡田利規と、岡田氏が来年招待されるというベルギーのクンステンフェスティバルのディレクター、クリストフ・スラフマイダーとの話を聞く。横浜線は終電がはやいので、横浜に行った時はいつも時間を気にしてなければいけないのが面倒だ。無事に最寄り駅に帰り着き、夜中までやっているスーパーで「半額」に値引きされた食べ物をいくつかとワインを買って、部屋に戻ったのは十二時前くらいで、だから今週も「のだめ」を見損なう。
●『三年身籠る』は、主演の中島知子が、俳優としても被写体としてもいまひとつ魅力に欠けることと、その主人公の位置づけがいまいち不明確であることが、映画の切れを悪くしているように思う。最初は、中心に居る「三年身籠る」人物に、あえて特定の性格づけをせず、空虚なキャラクターとしておいて、まわりの人物の反応や関係性を描こうとしているのかとも思ったのだけど、どうもそうではないらしいと次第に分って来る。妊娠期間が三年くらいあれば、母親も父親も、子供を受け入れるだけの準備が整えられるし、子供の側も、この世界のなかで生きて行くための準備が出来るのではないか、というコンセプトであるのなら、この母親を、もっと普通に(普通の人として)、きちんと性格づけするというか、固有化させなければダメなのではないだろうか。父親=夫の方は、どこでもいる、身勝手で人のことを考えないごく普通の「男の子」から、すごく「優しい、いい奴」に成長するわけで、この過程は、すんなり納得出来る(いつものことだが西島秀俊はすごく良い)のだが、母親の方は、妙に思わせぶりな感じの前半から、後半、山奥に籠った場面になると、ちょっとスピリチュアル系の入ったような、人間離れしたグレ?トマザーみたいな感じになってゆくのが気持ち悪い。(自分よりもずっと年上の、妹の恋人を「くん」づけで呼んだり、夫と妹の浮気を、ベッドの上にずっといるだけなのに察知したり、妙にものわかりがよくなって、変に母性が強調されてくる。)それと、この映画は、かなりの精度で唯野監督の頭のなかがトレースされているのだろうけど、それを超えるもの、それを裏切るもの、が、きれいに取りのけられていて、そこが食い足りない感じだ。例えば、小説であっても、演劇であっても、唯野氏ならば、この映画と同程度の質の作品を、この題材でつくることが出来るだろうという知性を感じはするが、それはつまり、この作品が映画である必然性が感じられないということでもある。
●最初の50ページ弱を読んだだけだけど、『オブラディ・オブラダ』の佐藤弘は、ちょっとまずいところに陥りかけているように思う。佐藤氏は、独自ののらりくらりした調子が魅力的で、「新潮」の新人賞作品から割と好きで読んでいるのだけど、この作品では、自分自身の「得意な調子」に頼り過ぎているというか、自分自身の節回しに酔ってしまっている感じが、随所にある。この調子というか、このスタイルがあれば、「内容」がなくてもいくらでも書けてしまうのだろうし、読む方も、この心地よいリズムに乗せられてけっこうするすると気持ちよく読まされてしまうのだが、実はこの「心地よい調子」こそが曲者だということは、作品をつくる人ならば誰でも敏感に察知出来なければいけないとぼくは思う。例えば、佐藤氏も大きな影響を受けていると思われる保坂和志の小説は、確かに独自の心地よいリズムですすんでゆくのだけど、内容が伴わないのに、そのリズムや調子だけで「読ませ」てしまうようなところはまずないはずだと思うのだ。保坂氏には、内容が伴わない(必然性のない)ところで、フレーズやリズムそのものが、それ自身で「踊って」しまうことに対する強い警戒感と(散文的)禁欲があるように、ぼくには感じられる。作品全体としては(結果として)「歌う」ことが必要だとしても、「歌う」ことが自己目的化されてしまってはダメなのだ。これは、だらだらとした心地よい文章が「書けてしまう」というような才能とは別のことだと思う。(例えば、声がよくて、歌がうまいボーカリストが、しばしば陥ってしまう「くささ」のようなものに対する警戒感というか。歌は結果として歌になるのであって、歌おうとしてしまってはダメなのだ。)一見捉えどころのない内容、だらだらとつづくような文章で作品をつくるならばなおさら、フレーズがそれ自身で自動化されて「歌って」しまうこと、書く人がそれに「酔って」しまうこと、に対する警戒感は、より強く保持されていなければ、本当に、ただ書き流されただけの文章になってしまうのではないだろうか。
とはいえ、冒頭のシーンとかはとても魅力的だし、この作家の独自の才能が確かにあって、いろいろと鼻につくところはありつつも、読まされてしまう。(若い作家なのだから、例えば編集者のような人が、作家が自身のリズムに「酔って」しまっているようなところは、もっと厳しくチェックしてダメ出ししてもよいのではないかと思う。)
八重洲ブックセンターの喫茶店で『オブラディ・オブラダ』を読んでいたら、「だってもう二十年もやってるのよ、二十年よ、二十年もやれは少しは変化や進歩ってものがあってもいいじゃない、なのに二十年前とまったく一緒!」と携帯電話に向かって大きな声で喋りながら、いかにも仕事をバリバリこなしていそうな中年女性が空気を揺るがすようなやや乱暴な歩調でツカツカツカッとやってきて、ぼくの隣の席に着いた。席につく前に、携帯で喋りつづけながら器用にコートを脱いで畳み、電話をつづけながらカレーを注文し、いかにも、仕事で忙しくて、その合間をみつけてようやくこんなところで遅い晩ご飯がとれたのだ、というような倦怠と疲労とを優雅に漂わせつつ、カレーを食べているのだった。ぼくはそれを横目で見つつ、今、読んでいる本の内容や、自分自身の置かれている時間の流れとは全く異なる何かが、こちらの頭のなかにふっと流れ込んで来たようで、そのギャップを新鮮に感じたのだった。