●『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX Solid State Society』をDVDで観た。あまりに見事な作品で、見事すぎて見事という言葉しか出てこない。それは、草薙素子から発せられたものが草薙素子へと返されてゆく展開が自己完結的だということでは全くなくて、むしろ逆に、これ以外にあり得ないというやり方で、あまりに見事に「自己完結的」であることを(物語として)逃れているために、かえって作品そのものとしての完結性が成立してしまい、観る側としては、「観る」ことによってその世界に入り込む余地が残されていないと感じるくらいなのだった。「現代的なトピック」がこれでもかというほど詰め込まれているのだけど、それが安易に(すぐに「古く」なるような)「現代性」を強調しているのではなくて、見事に作品内の一部分として組み込まれて機能していて、それが背景としての作品の厚みとなっている。つまり、作品が現代を表象するというより、作品が、その背景として現代を利用している。だから「現代」よりも「作品」の方が強い(作品が現代から離陸している)。しかしそれも、あまりに見事であるために、観客としては、あー、なるほど、と「納得する」以外のことが出来ない。なんというか、作品内部で蒔かれた種が、育てられた後に、あまりにきっちりと作品内部で刈り取られてしまっている、というのか。こういう書き方だと、否定的なニュアンスの方が強く出てしまうのだけど、こような見事な作品に触れることによって感じられる「驚き」は、とても貴重なものなのだ。
この作品は傑作だと思うけど、それは「作家性」とは無関係な傑作のように思う。映画やアニメーションは集団で製作されるものであって、その質はたんに作家としての「監督」のみによって支えられるものではないことは当然だけど、それでも、多くの場合、その「作品」からは、それがそのようにかたちづくられる核になるような存在としての「作家」の顔が感じられることが多い。いかに「作家主義」を批判しようと、事実としてそうなのだと思う。しかしこの作品は、作家としての神山健治の作品というよりも、「甲殻機動隊」というプロジェクトの、現在までの最高到達点としてある、という感じが強い。この作品に関わったスタッフの総体というだけでなく、原作者も含めての、過去のこのシリーズの積み重ねがあった上での、その現時点での成果として、この作品が生み出されたという感じであって、それが「作家性」よりもずっと強く出ている。この作品の見事さに対して、一個人である観客としてのぼくが、入り込む余地を感じられない、というのも、そのことと関係があるのかもしれない。
(少し不満があるとすれば、人物の動きや仕草がいまひとつ良くないのではないかと思った。この作品は、いわゆるアニメ=オタク的な要素は批判的に排除してあって、例えばタチコマのようなメカニカルなキャラクターも、マスコット・キャラとして受けるようなものとしてつくられていなくて、人物も、あくまでリアルでハードボイルドな感じなので、アニメーションにおいて、いわゆるオタクアニメ的、ディズニー的、あるいは東映動画的ではない人物を、どのように動かしたら良いのかという技術的な蓄積は、まだ十分にさなされていないのかも知れない。何というのか、『キャッツ・アイ』とか『シティー・ハンター』とかを連想させてしまうようなダサさが、ときどきチラッと感じられる。絵柄とか動きというだけではなく、声優による台詞回しなんかも含めて。)