ロン・ハワードの『ダヴィンチ・コード』をだらだら観ていた。映画を観ているだけだと、この話が何故『ダヴィンチ・コード』と名付けられているのかよく分らない。「最後の晩餐」で、キリストの左隣りに描かれている人物が女性のように見える、ということが確かにひとつのキーにはなってはいるけど、しかし、レオナルドはもともと、男性を女性のように描く画家だし、それはミケランジェロが、女性を男性のように造形する人だというのと同様のことでしかないように思う。(まあ、おそらく原作では、多量の蘊蓄がここで重ねられているのだろうけど。)テキスト(聖書)を解釈して描かれる図像はもともとも揺れが大きくて、そしてそれは過去の「謎(真実)」を示すというよりも、それが描かれた当時の風俗や、それをつくった作家の考えや好みなどを反映することの方が多いのではないか。例えば、旧約聖書では少年であるはずのダビデを、ミケランジェロは筋骨隆々とした青年のように造形し、ほぼ同時代のドナテッロは、線が細くて、胸が微妙に膨らんでいたり、帽子のようにみえるヘルメットをかぶっていたりする、ほとんど少女にしか見えない姿で造形している。(ペニスを持つ少女というイメージは、決してヘンリー・ダーカー独自のものではないのだ。)とはいえ、「最後の晩餐」でキリストと鏡で写したように対称に近い形態で描かれたこの人物が、あきらかに「意味ありげ」であることは確かなのだけど。(つまりレオナルドに、ここに何らかの「意味があるぞ」と人に読み取らせようという意図があって、このように描いていることは確かだとは思う。映画では、この人物の輪郭を切り取ってキリストの右側に置くと、キリストに寄りかかっているように見えるということが示されていて、それはなるほどと納得できるものだった。納得できるというのは、それが決してこじつけではなく、おそらくレオナルドがそれを意識してやっていたのだと思われる、という意味だ。でもそれは、何かしらの「隠された真実」を示すものではなくて、ただ絵画の構造を複雑にするための操作の一つだと思うけど。)
関係ないけど、先月イタリアに行った時、ヴィンチ村のレオナルドの生家というところにも立ち寄った。立ち寄ったけど、行ってみたら、別に立ち寄る必要もなかったと思われるような何ということもないただの小屋で、しかも、これが本当にレオナルドの生家かどうか確証はないみたいで、観光客を呼ぶために無理矢理にでっちあげた感も漂う、眉唾な感じの場所だった。なんだかなあと、しらけつつも、三つの部屋がある小屋のなかをぶらぶらしていた。レオナルドの生家は、それほど高くない山々が連なる地帯の、その一つの頂上のようなところに建っているのだけど、三つある部屋の一つに、山の斜面に向かって窓が切られていて、そこから、斜面いっぱいにひろがる紅葉が見えた。そのとたん、少年時代のレオナルドももしかすると、これとほぼ同じ光景を、ここから眺めていたのかも知れないと思って、つまりレオナルドが観ていたのと同じ紅葉を、今、時間をこえてぼくも観ているのだと思うと、しらけていた気持ちが一気に昂揚してくるのだった。同時に、この場所自体が眉唾もので、これはただ「窓」という装置にだまされているに過ぎないのだ、という認識もあるのだが、それでもやはり、昂揚するのだった。(建築における「窓」という装置には、このような機能もあるのだなあと、あらためて感じたのだった。)