07/11/24

●「ミシェル・ゴンドリー Best Selection」というDVDを観てみた。やはりミシェル・ゴンドリーは、映画よりも、ミュージック・クリップの方が断然面白い。この人は、ビョークの「Human Behavior」で注目されたらしいのだけど、ビョークと組んだ作品は、どちらかというとこの人の本領からはズレているように思えた。
おそらくこの人は、全体的なイメージがあってそこから細部を考えてゆく人ではなく、はじめから精密な細部のイメージがあり、そしてその細部と必ずしも有機的な関係にあるわけではない、細部たちを組み立てるための規則や公式が別にあって、それを一つ一つ結びつけて行く作業が、作品を「作る」ことだ、という感じなのだと思う。ミュージック・クリップの仕事が面白いのは、事前に絶対的なテキストとしての音楽があって、映像はあくまで、あらかじめある音楽との「結びつきの規則」によって導かれるからではないだろうか。というか、この人にとっては、「音楽」という全体があるのではなく、一つ一つの音と、その継起を保証するリズムのみがあって、映像はその一つ一つの音やリズムに、正確に、そしてきわめてリテラルに結びつけられる。その徹底した律儀さの気持ち悪さ、というのか。(音楽と映像とが完璧にシンクロする、ホワイト・ストライプス「The Hardest Button to Button」やケミカル・ブラザース「Star Guitar」の異様な気持ち悪さ。 )
一つ一つの細部はおそらく、ミシェル・ゴンドリーの頭のなかにだけある、ある固有の記憶や偏った傾向性によって形作られているもので、それ自体は外側にある世界と何ら関係をもたないのだが、その一つ一つの細部が、ミュージシャンによってつくられた曲の、具体的な一つ一つの音と結びつけられることで、結果として「一つの流れ(物語や世界観)」をもった映像が生まれる。だから、曲を聞いてイメージをつくるのではなく、曲の要素を分解して、それを、自分の頭のなかにあらかじめあるイメージと一つ一つ正確に対応させ、結びつけてゆくのだろうと思う。おそらくこの人にとって、細部のイメージは絶対的なもので、それは既にはっきり「見えて」いて、その「見えて」いる通りに実現されなければ我慢出来ない、という感じなのだと思う。だが、その細部たちの結びつきや構築性は、ミュージシャンのつくった音楽の規則に従っている。(ダフト・パンク「Around The World」やカイリー・ミノーグ「Come Into My World」などが典型的だろう。)
(初期のメルヘン調のものは、ロブ=グリエを思わせるようなものだが、最近の、よりざっくりとリテラル度が増したものは、マルセル・デュシャンに近付いているようにさえ感じられた。「Human Behavior」のようなメルヘン調の作品でさえも、そこから最も強く感じられるのは、メルヘン的な世界観ではなく、「蛾の回転」という反復される細部の、異様なまでにクリアーな感触なのだ。)
あと、基本的にこの人の作品は、「一つのアイデア」で強引に押し通す感じがある。沢山のアイデアを盛り込んで作品を豊かにするのではなく、たった一つのアイデアを徹底してやり切ってしまう。あまりに徹底してやってしまうので、そのアイデアがそもそも面白いものだったのかそうでないのかが、最後にはどうでもよくなってしまう。(唖然としたのはジャン=フランソワ・コーエン「La Tour De Pise」で、これで最後まで通すのかよ!、という感じだ。)
例えばケミカル・ブラザース「Let Forever Be」の、PCをつかった編集なら簡単な操作で出来てしまうような映像のエフェクトを、わざわざ三次元的にセットで再現して、それをエフェクトでつくられた映像ときれいに繋げてしまうというようなアイデアは、アイデアとしてそんなに面白いとは思えない。面白いとは思えない上に、撮影や編集の作業はえらく大変であることが予想される。だがここでは、そんな面白くもないアイデア一本で最後まで押し切り、しかもそれがかなり凄い精度で実現されているので、それを見せられると、そこに異様な説得力が生まれてしまっているのを認めざるを得なくなる。(単純に、なんだこりゃ、という感じだ。)撮影はさぞ大変だっただろうし、その大変さを支えるモチベーションとなるはずのアイデアがそもそも、わくわくするような面白いものとも思えないのだが、おそらく細部の正確さに異様にこだわる人だと思われるミシェル・ゴンドリーは、そんなこととは関係なく、その大変な作業を喜々としてこなすのだろう。そういう人にしか作れない作品というのがある。物語よりも、細部の感触と数学的規則を必要とするような人なのではないかと感じた。