07/11/23

●昨日、photographers' gallery+IKAZUCHIで観た大友真志の作品について、感想をとりとめなく書いてみる。
●一見、慎ましくあるようで、非常に多弁である。多弁ではあるが、決して声高ではない。撮影場所は、おそらく実家のリビングのようなところなのだろう。二つに分けられたスペースに展示されている9枚の写真は、全て同じ場所で撮影されているようだ。それは、撮影のために整理されているようでいて、日常生活が行われている場であることによる、がちゃがちゃした感じも残っている。
●母親を撮った写真が4枚、姉を撮った写真が5枚。母2枚、姉3枚の一室と、母2枚、姉2枚の一室に分けて展示されている。母は、写真館で記念写真を撮るかのような衣装を着、そのようなボーズをとっている。姉は、それよりはややくだけた姿勢で、着ているものも普段着に近い。カメラと対象との距離やフレーミングも、それを反映している。母親を撮った写真では、姉よりもやや距離がとられ、フレームもきっちりとしている。photographers' galleryの方に展示されていた2点では、ほぼ同一の光、ボーズ、フレームであり、ほとんど同一のイメージと言ってよいもので、ほんの僅かな首の傾け方の違いがあるだけだった。(この僅かな違いは、2点が並べられていなければ感知出来ないだろう。)姉を撮った写真は、一枚一枚、対象との距離やフレームが微妙に変化している。姉も、それに呼応するようにポーズや位置をかえてる。photographers' galleryの3点では、カメラはやや高い地点から姉を捉えており、カメラを見つめる姉の眼差しは、ほんの僅かだけ上目使いのようにも見える。ここで3点が並んでいることで、距離とフレーミングの融通性のようなものが感じられる。同時にそれは、撮影の時間の推移も感じさせる。
●母親は、展示された4点の写真で、ほぼ同じ顔や表情に納まっており、ほぼ同一の印象のなかにある。姉は、一枚一枚で微妙に印象の異なる顔をしているように思われる。実際、ここには一人の姉がいるのか、それともそっくりな二人の姉がいるのか、写真を観るだけでははっきりと断言出来ない。IKAZUCHIの方に展示された1点は、フレームといい光りといい、ほとんどフェルメールかと思うような美しい写真(からし色のシャツ、ブルーのスカート、手前の植物の緑、そして背後のドアにあたる光り)なのだが、姉の写真で、フレームや光りが「絵画的」な納まりのよさをもっているのはこの1点だけだった。
●母親は、まるで写真館で撮る写真のようなポーズをとっているが、そこはおそらく日常生活が営まれている場所だと思われる。端正なポーズをとる母親の座っているソファーの手すりにかかっているカバーが、軽く反り返っている。このなんでもないカバーの反り返りに目が吸い付けられ、この細部にやけに魅了される。また、別の写真で、母親がつけているブローチに、やけに目が吸い寄せられてしまう。あるいは、その写真の背後に写りこんでいるドアのノブの誘惑。あるいは、姉の写真に見られる無造作なパーカー、そこから垂れ下がる紐。こういうものたちは、写真によってはじめて「見る」ことが出来るものたちではないだろうか。
●photographers' galleryに展示された姉の写真には、低い位置にある太陽光が、部屋のなかに強く差し込んでいる。この光りのあり様がまた、この空間が日常的な空間であることを物語っているように感じられた。姉の下半身には外からの強い光りがあたり、それに比べると上半身はやや暗がりのなかに埋もれている。しかしこのような描写では正確ではなく、直射日光のあたっていない部分も、物をくっきりと見るのに充分な明るさはある。そして顔の部分には、そのどちらでもない絶妙な光りがあたっているように思われる。
展示されている作品を観て、まず最初に魅了されたのは、photographers' galleryの方に展示された3枚の姉の写真の「顔」だった。ぼくはいままで、このような顔を何度も見たことがある。街を歩いていて、電車のなかで、あるいは知人のなかにも。しかし同時に、このような「顔」は、今ここではじめて見た。おそらく、このような顔は写真でしか見ることができない。(というか、「この写真」でしか見られない、という質をもったものだ。)この顔はカメラを見ている。つまり撮られていることを意識している。しかしここには、人に見られていることを意識しないで撮られた顔とは、別種の何ものかが露呈しているように思われる。(ぼくはフリードの「反演劇性」や「没入」という概念を感覚的にももの凄く良く分るのだが、しかし、このような写真を観ると、それが概念としても、分析の道具としても、いかに不十分で偏ったものであるのか、ということも分る。見られることを意識したからといって、人は自らの対他的なイメージを完全に制御することなど出来ない。)あるいはポーズにしても、それは意識されたポーズであると同時に、ある無防備さもあるような、どちらでもあり、どちらでもないようなものに見える。
この顔、この視線、この姿勢が、つまりここで溢れ出ている何かが、弟である写真家との関係によって生まれるものなのか、そうではない別の何かなのかは分らないのだが。
●対して母親は、カメラの前であきらかに他所行きの顔をしているようにも見える。撮られることを充分に意識した顔、そしてポーズ。(とはいえ、充分にリラックスはしているように思われるが。)しかしここでは、撮られることを意識しているというその事実によって、逆に露になる何かが溢れ出ているようにも感じられる。その意識のされ方そのものに、その人の何かか゛露呈されている。そしてそれを撮る子供である写真家は、母親のそのような「意識の仕方」を充分に尊重しつつも、そこから溢れる余剰をこそ捉えようとしているように思われる。これはきわめて上品な態度だと思われる。
●複製技術による作品の、複製不可能性のようなものを感じた。実際、こんなに高度な作品が、プリントすることで同等の質のものをもう一枚、二枚とコピーすることが出来てしまうものなのだろうか。というかそもそも、これは技術的な問いなのだろうか。例えば、ぼくが感じた感覚は、この場所で、このように展示されることによって成り立ったもので、同じ作品でも、別の場所で、別の作品と並べられたら、また別の感触になるのだろうか。というかそもそも、ぼくが感じた(ここで充分に記述出来ているとは全く思えない)このあまりに複雑な感触を、そっくりそのまま、もう一度再現することなど本当に可能なのだろうか。複製技術の高度化は、逆に、それを受け取る我々の身体や感覚の同一性の方を揺るがすことになるのではないか。