●銀座、なびす画廊で、利部志穂展(http://www.nabis-g.com/kikaku/k2009/kagabu-s.html)。ぼくが、今、最も面白いと思う美術家。「面白い」という言葉の意味は、この人の作品のことを指す、とすら思う。とにかく、ものとものとが、普通に考えてちょっとあり得ない繋がり方をしている。そしてその「繋がり」が、いわゆる美術作品がつくる「空間」とは異質の、非-空間的な空間を作り出す。それは、その内部で人がからだを動かす(行為を為す)ことの出来る可能性の広がりとしての空間というよりも、人の「認識」が、そのなかでどのように変質可能であるかという可能性の広がりとしてある空間だと言える。その、ものとものとの「繋がり」の異様さは、空間を一望するように「観る」だけでは捉え切れない。とりあえずは、一望しただけでも、全体として空間に生み出された独自のテクスチャーを味わうことは出来るし、細長くて上に延びるものが散発的に空間に散らばる、独自のリズム感を見て取ることも出来る。しかしそれだけだと、独自の「味」はもっているが、作品としての制御がやや弱い、舞台装置のような空間にも見えてしまうかもしれない。
しかし、細部を丁寧に見ていて、例えば、伏せられた錆びた金属製のカゴの端がやや浮いているのだが、そのカゴの端を吊っている細いワイヤーを辿ってゆくと、天井に達し、ワイヤーは画廊の空間を対角線状に横切っていて、離れた場所にある、天井から中空の位置に吊られている泡立て器(骨が一本切られて、ひろがっている)と繋がっていることが知れる。つまり、この泡立て器を宙に吊っている力と、(美術作品的な空間分節から見ると、あまり関連のない離れた場所にある)一方の端を床に着地させながら、もう一方の端を浮かせている金属製のカゴの、その一端を浮かせている力とが、重力として釣り合っているのだ。それを知ったその時の、「ええっ、こんなところとこんなところとがそんな風に繋がっているのか」という驚きは、それを見ている者が、その場にいて、今、認識していると思っていた作品空間の認識のあり様を大きく変化させる。
とにかく、細かく見れば見るほど、ものともの、細部と細部との関係のさせ方が「妙」なのだ。黄緑色のプラスチック製の漏斗のようなものが、同じ色の壊れた傘と接続させられているし、枯れた雑草の茎のくしゃくしゃっとした形が、イヤホーンの絡まった電線と対応づけられている。画廊の天井にもともと設置してある、スポットライトを取り付けるためのレールと、そのレールと同じ幅をもったそっくりの金属製の棒とが直角に組み合わされ、そこに何故か、「来客用」とマジックペンで書かれた靴べらがひっかけられている。画廊にもともとある換気扇のファンの回転と、天井から逆さに吊られたエアコンの室外機のファンの回転が関連付けられ、それによって目では見えない「風の流れ」が想起される。どこかのベランダに放置されていたものをもらってきたという、伸び放題に伸びて枯れかけているアロエの鉢植えが、逆さに吊られたその室外機の下にまるでベランダに置かれるそのままのように置かれていて、(ファンの回転と外との繋がり等の連想もあって)ベランダという半室外が、画廊の室内にそこだけ反転して現れたかのようだ。絶対に見たことがあって知っているものの一部のはずなのにそれが何だかよく分からないものと、日常的に見かけるけどそれを何と呼ぶのかが分からないものとが、形状や色や質感や、何かよく分からない規則によって組み合わせられることで、よく知っているはずなのにはじめて見たかのようなものが出現する。そしてその「普通はあり得ない接続」は、たんに、物珍しい感触、突飛で奇をてらった表情を狙ったものではなく、どのような規則なのかまでは充分に解析できないのだが、そこに何かしらの規則の存在を予感させる何かが確実にあり、つまり、「妙な繋がり」は、作品空間全体として、その背後に大きな「秘密」を隠しているような魅力と説得力をもっている。
美術作品としてぼくが知っているものでもっともこの作家の作品に近いのはティンゲリーだが、ティンゲリーの場合は、作品全体として一つの調和が事前に約束されていて、細部と細部との繋がりは意外だったり突飛だったりするものの、作品全体は、ガタピシとしつつ滑らかに作動するノスタルジックで母性的な機械というイメージに収まるものだ。あらかじめ調和が約束された幸福な機械としてのティンゲリーの作品は、作家の頭のなかのメカニズムと、それを表現する頭の外にある物質-イメージとが幸福に一対一で対応しているように感じられる。それに対して利部志穂の作品は、頭の中と外との関係というか、インターフェイスのあり様がもっと危うく、不安定で、結果が先取りされていない感じがする。作品全体としての幸福な調和-イメージのようなものは目指されてはいなくて、ものとものとの(作家にとっての)正確な繋がりを見出すことが先にあって(その意味で、作品-イメージの制作-創造というよりも、マッドサイエンティストのような、世界の秘密の探求という感じなのだと思われる)、その「正確な繋がり」が何重にも重ねられる結果として、「あり得ない繋がり」が複雑に錯綜した、独自の非-空間的な空間が出現してくるのだろうと思う。真の意味でユニークな作品であり、このような作品を、彫刻やインスタレーションといった、既成の美術史的な文脈で評価したりしなかったりすることには、あまり意味がないようにさえ感じられる。
加えて、この作家の、物質に表情やテクスチャーに触れる感覚には独自のものがあるように思う。全体には、無機的で金属質な感触が支配的であり、その点でも、有機的で世界との親和性の高いやわらかなイメージを組み合わせるティンゲリーとは異なるのだが、しかし、その金属の質が、同時に植物や土といった有機的な要素と同居可能であり、それらを排除しない。世界に対して、親和的、調和的な、ふわっとやわらかい感じではないが、同時に、金属質でエッヂの立った、非親和的、非同調的な、トゲトゲした感じでもない。枯れかけた植物と、壊れた傘の骨とが自然に重なるような、無機的なものと有機的なものとがなしくずしに混ぜ合わされてしまうような、不思議な中間地帯がつくり出されている。人間的でも、非人間的でもない、かつて人間がいた、かつ、未だ人間が現れていない、そのような空間というのか。
いろいろと書いたけど、作品の面白さには全然届いていない。とにかく、見れば見るほど「面白い」作品なので、会期中、あと何回か観たい。