柴崎友香「ドリーマーズ」(「群像」6月号)。冒頭の電車の場面が、とばし過ぎで超笑える。港に停泊する船があまりにデカくて驚く。目のなかから出て来るものが気持ち悪くて笑える、そんなの見たことない、等々。
一人称の記述のなかに三人称の気配が混じるというような書き方が、より意識的に、より強く押し出されているように思う。そして、今、ここ、で見えているもの、感じられているものを描くことが、同時にそのまま、今、ここにはないもの、記憶や想起をも描くことになる、というような書き方が、より複雑さを増してなされているように思われる。知覚が、記憶や想起を呼び寄せるのか、あるいは、記憶や想起の方こそが先にあって、そのまわりに知覚が配置され構成され、今、ここにあると思われるものに独自のいろどりや感触を与えることになるのか、どちらとも判然としないような記述。ここ、を詳細に記述することが、ここではないどこかを常に呼び寄せるかのような。時にそれは、読みづらく、分りづらい、文としてこなれていないようにも(しかしそれが必然だと)思われる記述さえ招くことになる。そして、そのような書き方が、小説内の現実と夢との関係を、一層複雑なものにしている。そのことが、夢の描写に独自の感触を与えている。
密度と複雑さは、混沌にまであと一歩というところまで高まっていて、全体に、様々なものや事柄がびっしり詰まっており、それらがいつも細かく動いていて、わさわさしているような感触。そられのひとつひとつが、この作家の小説をずっと読みつづけている読者としては、面白く、興味深いのだが、それとはまた別に、この作家の他の小説ではみられなかったような事が一つ、この小説では起こっているように思った。
それは、ラスト近くで、主人公が魚住さんという男性と電話で話す場面だ。この場面で話されていることは、ほとんどが、この小説のそれ以前の場面で描かれていることを受けての、律儀な反復なのだ。大袈裟に言えば、この会話の部分だけ読めば、この小説の「あらすじ」はほぼ把握出来る(ちょっと言い過ぎだけど)。この会話にあって、これ以前の場面にないものと言えば、ニコラス・ケイジの映画の話くらいで、あとは、読者は既に知っていることが語り直される。この電話の場面が、この小説全体を受けとめ、まとめるかのような役割をもつようにみえる。
ここから感じられることは二つある。一つは、この小説に描かれていること全体が、すべて、この電話の相手である魚住さんに向かって書かれているようにみえること。あらゆる場面が、そこには不在の魚住さんと共に見られ、魚住さんに向けて送り届けられるためにあったかのように(実際、「写メ」によって視覚像が直接送信される)。実は、見ること-描写することを起動させる動因として、その送り届け先である魚住さんという存在が、すべてに先立ってあった、あるいは、そこに収斂される、という感触。それはたまたま、作中では魚住さんという形象となっているが、もっと一般的な「誰か」かもしれない。とはいえ、それだけならば、この作家の以前の小説にもみられたことで、ただ魚住さんという存在が作中でほのめかされていれば充分であり(冒頭の「好きな人がいるかどうか聞いてくれて嬉しい」という感情だけで充分というか、それだけの方が正確かもしれない)、小説の出来事をいちいち反復するような会話が律儀に繰り返される必要はない。
ここで重要なのは二つめのことで、ただ、送り先として、あらゆる感覚の動因として、魚住さんが想定されているというだけでなく(その相手が魚住さんであることは、もしかしたらそれ程大きな問題ではないのかもしれない)、その出来事が魚住さんに向かって実際に語られ、その「反応」が返ってくる、という点だろう。
この小説では、ある出来事が語られるだけでなく、それが、実際に誰か特定の人物に向けてもう一度「語り直される」ということこそが描かれているように思う。(この「語り直される」という行為は、この小説の大きなテーマである「夢」とも深く関わる。夢が直接的に描写されると同時に、登場人物たちによって夢の話が「語り直され」もする。というか、「夢の直接的描写」が既に「夢」そのものの語り直しだし、「夢」というものがそもそも、ある現実的な出来事や感情の「語り直し(経験し直し)」でもある。)
ある経験が描写され、その描写された経験が登場人物によって再び語り直され、その語り直しに対する反応が返ってきて、その反応に対する登場人物の反応までが描かれることになる。話者によって描写された出来事に対する、登場人物による語り直しの関係は、小説が書かれる以前にあるモチーフとしての出来事(それが実話であろうが、想像-創造されたものであろうが)と、それによって書かれた「小説」との関係とパラレルだとも言える。だからここでは、そもそも描写するということ自体が、既に(現実に、あるいは頭の中に)あった出来事の語り直しなのだとも言える。ここでは、繰り返し、ある出来事が(その都度、別の誰かに向かって)語り直され、語り直される度にあらたに経験され、同時に、語り直した相手の反応によって、またさらに経験が書き換えられる、というところまでが描かれていると言える。
この小説で、主人公が語った(語り直した)亡くなった父親の夢の話に対する魚住さんの反応は、きわめて凡庸なものだ。しかし、その凡庸な反応を聞いた主人公の反応-感情は決して分かり易いものとは言えない、複雑な屈折を含む。この感情は、語り直すこと、そして、相手の反応を受けること、によってはじめて生まれるものだ。そして、この感情が、複雑なリフレクションによって屈折されたものであっても、なお、肯定的な感情であることに感動する。以下に引用する部分は、主人公が父の夢について魚住さんに語り直し、それについての魚住さんの反応が書かれた後の、「わたし」の反応。
《「そうですね」
さっきよりも少し強く言ってみた。言ったら、安心したような気になって、同時に、そんなふうに誰かが言ったら、もうあの夢は見られなくなる、と抗議したい気持ちもあった。不安な感触が薄れてしまって、きっとこんな夢は、わたしにだけある特別なことではなくて、よくあることなんだろうと思えてきた。何度も繰り返されてきたことなのだろうと。だけど、総合的には、わたしはうれしそうだった。泣きそうだった。》
柴崎友香「5月の夜」(「papyrus」6月号)。空間的、身体的には離れている(不在である)からこそ一層なまなましい、感情のわずかな接触点の三つのかたち(「わたし」「ゆきちゃん」「ノブナガ」)を、東京の風景と風俗を背景に、「わたし」を視点として鮮やかに響かせる。主人公の「かなみ」に対する感情は複雑なものであろう。「かなみ」は「わたし」にとって得体の知れない敵(?)であるかもしれないと同時に、ちょっと位置がズレれば「わたし」自身かもしれないのだ。「ゆきちゃん」の感情や「ノブナガ」の態度に触れることで、「わたし」の側から恋人を見るだけでなく、「かなみ」の側からも「恋人」を見ることになる。というか、目の前にいる「かなみ」的感情をもつ二人に触れ、その感情に共感可能であることが、「わたし」を、「わたし」のいる場所(利害)から浮遊させ、不思議な位置に置く。《わたしはわたしの好きな人のことを、考えていた》という時の「わたし」の気持ちは、そのまま、おなじ人のことを考える「かなみ」と重なるかもしれないのだ。それはむしろ、「わたし」と「恋人」よりも、「わたし」と(見えない存在である)「かなみ」との距離を近づける。あるいは、「かなみ」の存在が不可視のままで一層リアルに感じられるようになる。《好きな人のことを、考え》る時の感情によって、利害上では対立する「わたし」と「かなみ」の差異は消失し、「わたし」は「かなみ」になる、とさえ言えるかもしれない。とはいえ、「わたし」でありながら「わたし」の外にいるもう一人の「わたし」としての「かなみ」への脅威(不安)が消えるわけでもない。
自然に、チェーホフとかが想起されるような、とても上手く出来た短編だと思う。こういうことがサラッと出来てしまう人が、「ドリーマーズ」のような、混乱一歩手前にも思える、ギッシリしていて、ざわざわしている小説を書いているんだなあ、と思った。