●ガルシア=マルケスの自伝を読み始めた。七百ページちかくある本のまだ最初の七十ページ弱くらいだが、面白い。すごい胡散臭いし。面白いと、なかなか先に進まない。
人に小説を書きたいと思わせるもっとも「素朴」な欲望に、自分の記憶を語りたい、記憶を語り直すことによって生き直したい、というものがあると思う。それは、芸術的、文学的、あるいは文学史的な野心とは必ずしも一致しない、きわめて素朴な次元のものではあるのだが、良い悪いはともかく、そのような素朴な欲望に支えられていることが、小説というジャンルの「強さ(底力)」と繋がっているんじゃないだろうかということを、まさに「自伝」であることを言い訳にして、そのような素朴な欲望に従って書こうとしているようにも読めるこの本を読みながら思っていた。
●「ラカンはこう読め」的な本は今も出続けているのに、何故、「セミネール」の翻訳の出版は止まってしまっているのだろうか。フーコーもドゥルーズもデリダも文庫で読めるのに(主著が文庫で読めるのはドゥルーズ-ガタリだけだとしても)、『エクリ』は何故依然としてあんなに高いのか。廉価版は出ないのか。新訳ブームなのに新訳は出ないのか。「ラカン入門」とかいうものは本来、ラカンを読むための手引きとしてあるはずで、ラカンを読まないですませるための本じゃないはずなのに(当然のことだが、ジジェクの本には「ラカンが言っていること」ではなくて「ジジェクが言っていること」が書いてある)。それがぼくの手に負えるようなものなのかどうかは、また別の話だが。例えば『夜戦と永遠』を読んでいると、『アンコール』を読むことができないということの理不尽さを感じる。
●ここのところ毎日、一日に五時間くらいずつずっと書いていた作品論の第一稿が書けた。繰り返し読めば読むほど、「この小説はおかしい」、あるいは「なんて乱暴なんだ」という思いを強くするような小説。勿論これは貶しているのではなく、驚嘆している。仮のタイトルは「わたしは知りたかった」。七十枚ちかくになってしまった。