●友人の展覧会のオープニングに顔を出すために出掛け、途中で経堂の古本屋に立ち寄る。ラカンのセミネールが安く出ているという情報を得たから。『フロイト理論と精神分析技法における自我』を上下揃いで3800円で買った。この本は、以前神田の古本屋でみかけた時は一万五千円とかいう値段がついていた。(他にも、『精神分析の倫理』と『精神分析の四基本概念』もあった。持っているので買わなかったけど。)
いまでは、フーコーもドゥルーズもデリダも文庫で読めるというのに、何故、ラカンの本はみんな高い上に手に入りにくいのだろうか。(「日本の古本屋」を検索すると、『エクリ』は、一巻が単独で五千円、三巻揃いだと二万円というのが相場みたいだ。ぼくは一巻しか持っていない。)「ラカン入門」みたいな本はけっこう出てるのに。(最近ではとうとうジジェクのが出たし。)せめて『精神分析の四基本概念』くらいは岩波文庫から出してほしい。『エクリ』も、全部は無理にしても、いくつかの論文をピックアップして、文庫で新訳で出す、という風にはいかないものなのだろうか。
●ジジェクの『ラカンはこう読め!』は、気楽に(話半分で)だらだら読むのには丁度いい本だ。でも結局、ジシェクは、ラカニアンというよりヘーゲリアンなのだと思う。(とかいって、ヘーゲルについてあまり知らないけど。)ちょっと面白いところがあったので引用する。
《今日の進歩的な政治の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに勤め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために、何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き籠り、参加を拒否することだ。この最初の第一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。》
ジジェクで問題なのは、「状況の座標を実際に変化させる行為」というものの具体的なイメージが全然みえないところにあるのだけど、それはともかく、最近のアニメなどで、あまりに無邪気に「男性原理的な能動性」が礼賛されているのには、ちょっとびっくりすることがある。「グレンラガン」みたいなのから「まなびストレート」とか「クラナド」みたいなのまで、それは感じられる。(男性原理的な能動性を先導するのが「天然-無垢な少女」の「純粋な思い」だったりする。あるいは、どちらかというと女性の方が、このような能動性の病にかかりやすい気もする。)そんなに簡単に90年代をなかったことにしていいの?、と思う。例えば、『少女革命ウテナ』で、ウテナが決闘に参加しつつ参加していない(決闘に意味などないことを示すためにだけ決闘する、ウテナの真の闘いは別のところにある)ことの意味や、『エヴァ』のシンジ君が何故あんなにウジウジしていなければならなかったのかということの必然性について、もうちょっと真剣に考えなくてはいけないのではないかと感じる。(まあ、ぼくがもともと、いつも「忙しくしている」ような人のことをどうしてもどこか信用出来ないと感じてしまう、というだけのことかもしれないけど。)
●展覧会のオープニングで、十年くらいは会っていなかったんじゃないかという大学時代の友人と会う。人は、年齢によって見かけはかわっても、「喋り方」は全然かわらないものなのだなあ、とつくづく感じた。その友人と、いま何やってるの?、みたいな話になって、友人は、片手間につくったもの(右手を骨折したので左手でつくったようなもの、という言い方をした)が予想外に売れたので、半年くらいは何もしなくてもいいんだ、と言っていた。で、その後の話の流れで、その「左手でつくったようなもの」が、「初音ミク」のことだと分かって驚いたのだった。(その道で相当成功しているということは、前から間接的に聞いてはいたけど。)