●最近観たアニメでは、あらゆる意味で凡庸であった『フラクタル』も、それよりはずっと質の高い「まどか☆マギカ」(9話と10話はまだ観てないけど)も、どちらも想像力のあり様としては類似していた。つまりどちらも、超越性や世界への「信」が、少女という形象に賭けられ、世界の重さが少女に負わされていた。
だが「ピングドラム」の苹果は、それらとはまったく異なるあり様をしている。保留された死であり、兄である双子たちにとって何か決定的な過去の傷そのものでもあると思われる陽毬は、今後おそらく、世界の重さを一身に負わされる生贄のような存在となってゆくような気がするのだが(作中での陽毬の位置づけは、現在までのところ開かれたままだが)、一方苹果は、(今のところ)運命-過去に拘束されながらも、過去からズレつづけている。
それ自身としては不定形な欲望が、姉の残した手記によって形作られ、方向を得る。つまり苹果は、姉の欲望を忠実になぞろうとするのだが、それをなぞろうとする力そのもの、数々の突飛な行為を実際に行うエネルギーは、苹果のものである。そしてその結果もまた、苹果独自のものとなっている。彼女の日記への忠実さは、結果として、彼女を多蕗にではなく、高倉家に、とりわけ晶馬に接近させる。
まどか☆マギカ」では、自らの「願い」と引きかえに、自らの意思によって魔法少女となる。私の願い、私の意思、その帰結としての(自己責任において選択された)魔法少女が、自分の意思において世界の重みを負わされる。しかし実際には、そこに少女たちの意思などないのも同然だ(同じ結果が何度もループする)。つまり「自らの意思」という罠にはまっている。そしてそれを破るために、特権的な力(資質)をもった特別な存在(少女)が希求されるしかなくなる。
(例えば「ウテナ」では、ウテナは自身の意思や欲望によってではなく、ただ「決闘を否定する(無意味なものとする)」ために、決闘をつづけ、しかもそれに勝ちつづけることを強いられていた。ウテナには、世界-永遠-革命という「全体」を背負う意思もないし、決闘に参加するために何かを引きかえにするといった契約もない。ウテナの決闘の動機には世界という全体性は含まれておらず、ただアンシーとの関係だけによっている。)
一方、苹果においては、姉の願い、既に記述されたものへの忠実さこそが、彼女を他の誰にも真似出来ない行為へと駆り立てる。彼女は、消滅する媒介者であろうとするが、それが結果として彼女の特異性(それが「痛さ」であっても)を際立たせる。姉の忠実な代弁者であろうとする苹果の行為は、どんどん姉から離れてゆく。姉の代理であろうとすること(姉への同一化)によって逆説的に彼女自身が形作られてゆく。彼女においては(自らの「意思」ではなく)テキストへの忠実さが力と能動性の源泉であるが、それこそが彼女の行為をテキスト(過去)から逸脱させている。反復が不可避に孕むノイズが新たな関係を生み出す。しかしその力は過去への拘束によって生じている。苹果は、過去に向かって進むことで未来をつくりだす。
苹果の「望み」は過去の回帰だが、その望みをかなえるための手掛かり、過去への通路として選択された「姉の日記」が、彼女の行動を過去の回帰から逸脱させる。日記という媒介-テキストが、苹果の「望み」を「行為」へと変換する装置として機能することで、彼女は過去-望みに囚われたまま、しかし「望み」とは別の場所へと導かれる。
逆に言えば、「姉」はあらかじめ「苹果」のなかに埋め込まれている(憑りついている)、つまり、苹果は姉の媒介(代理)であるが、それは姉を純粋に媒介する(表象する)のではなく、姉を変形する。姉-残された日記は苹果の媒介であり、苹果は既に亡くなった姉の媒介であることで、苹果は姉化し、姉は苹果化する。このことで、姉は幽霊として生き続け、しかしそれによって苹果は苹果自身となってゆく。
「私の意思」によって、「私の願い」と「私の魂」が交換され、「私」が「意思」によって「世界(全体)の重さ」を背負わされるという「まどか☆マギカ」の構図よりも、過去に囚われながらも(過去に憑りつかれつつ)、その過去によって、過去とは別の場所へと至る行為(能動性)が可能となる、という苹果のあり様の方が、結果としてずっと開かれていることにならないだろうか。
(「ウテナ」においても、彼女を束縛すると同時に、その能動性を導いていたのは、薔薇の刻印-過去であった。)