08/02/03

柴崎友香「クラップ・ユア・ハンズ !」(『イルクーツク2』)。最初に読んだときは、正直、なんかよく分らなかったのだけど、何日か置いてもう一度読んだら、妙に面白かった。でも、どうして面白いのかは、よくわかってない。
柴崎友香の小説を読んでイメージすること。大きな、でも浅い川があって、水面の上に飛び石のようにいくつも石が出ている。その石を、川に落ちないようにして、ぴょんぴょんと飛んで、向こう岸までゆくような感じ。そこでは、人並みはずれた身体能力(跳躍力とか)や、アクロバティックなバランス感覚(中国雑伎団みたいな)が示されているわけではない。それでも、決して川に落ちることなく、リズミカルに次の石へと飛び移ってゆける、(石を選ぶ)的確な選択とバランスの感覚が常に保たれていて、何よりその動きそのものが見ていて面白い、という感じがする。そこには、決して「派手で凄く面白い事」が書かれているわけではないが、しかし「退屈」に落ち込むことが絶妙に避けられている。
おそらく小説に限ったことではなく、作品において、リアルであるということは「面白い」ということで、退屈だというのは、リアルではないということだ。ここで、いくら現実と照らし合わせて正確で(あるいは正当で)あったとしても、それが「退屈」を感じさせるものならば、作品としてリアルではない。しかしここで、前述した《決して「派手で凄く面白い事」が書かれているわけではない》という時の「面白い」と、《リアルであることは面白いということだ》という時の「面白い」は違っている。つまり、あまりにも分りやすく「面白いこと」は面白くない(リアルではない)のだ。(逆に、退屈なところがリアルだ、という面白さもある。)単に退屈を避けるだけでなく、面白い(1)と面白い(2)とが、的確に判定される必要がある。でも、何がどっちかということは、すごい微妙なことだ。リアルである「面白いこと」は、実際に書く事やつくることを通じてしか出てこない。というか、作品をつくるということは、自分のしたことに対してのその微妙な判定をいちいち何度も繰り返しながら進んでゆくことだとも言える。
●次に引用するシーンは、大学の正式ではないチアリーディング部に所属する主人公が、サークルの仲間たちとストレッチしながら、クリップで留めておいたはずのポテトチップスの袋の口が、部屋に帰ったら開いていたという話をしているところ。それ以前に、部屋には幽霊が出るという話もされていた。
《「ねずみじゃない?」
体育館の裏の通路でストレッチをしながら、幸恵ちゃんが言った。開け放たれた扉から、中でレシーブの練習をする女子バレーボール部が見える。手が痛いのになんでできるのかなあ、と思う。脇をのばしたポーズのまま、わたしは答える。
「でもうち二階やで。築二年やし。」
「関係ないって。前わたしんちも出たことあるもん」
わたしと左右対称のポーズの幸恵ちゃんが言うと、通路にぺったり足を広げた七実がこっちを見上げた。
「というか、誰かが家に入ってんじゃない?」
「ポテトチップス食べに?」
「そうそう、おなか空いてるんだよ」
今度は反対側に体を倒した幸恵ちゃんは、あっさり納得しているようだった。わたしは、腕を降ろした。
「ねずみが?」
「違うよ、幽霊」
それだけ言って七実は黒目が大きい丸い目で、じっとわたしを見上げていた。遅れた貴雪が、ごめんごめんと階段を上ってきた。》
この一見なんでもないシーンの冴えた感じ。例えばこのシーンを、この文章と同等なくらいの冴えた感じを維持しつつ映画に撮るとしたら、監督には相当な力量が必要となるだろう。三人いるうち、二人が組んでストレッチをしていて、残りは一人で足を伸ばしている。主人公は二人と会話をしつつも体育館のなかのバレーの練習をみて、会話とは別のことを考えている。会話と行為と視線(注意)の移動とが同時に別々に動いている。会話は、主題をキープしつつ、三人であることから妙な展開をする。もう一人がやってくることで、シーンが途切れる。
会話だけとっても、「というか、誰かが家に入ってんじゃない?」という新たな意見の提示に対し、「ポテトチップス食べに?」というややボケた対応がつづき、しかしそれが「そうそう、おなか空いてるんだよ」と当然のように受けられ、「ねずみが?」という文脈からズレた対応ののち、「違うよ、幽霊」という意外なところに着地する(これを言う七実はもっともその手の話を怖がる人とされている)。ここで現実的に考えれば、「というか、誰かが家に入ってんじゃない?」という話題に対しては、通常、ストーカーとか変質者とかいう話につながりがちで、そうでなくても、誰もいないはずの部屋で留めたはずのクリップが外されていたという話は、ねずみなどではなく、まず最初に「そこ」が疑われ、気味悪がられるはずだと思うのだが、会話が「そこ」向かうことはおそらく意図的に避けられている。何故さけられているのかと言えば、会話がそこに向かってしまうと小説として面白くない(リアルではない)展開に陥ってしまうからだろう。(お話としては、分りやすく面白くなるのかもしれないけど。)それは、「幽霊」が出て来ると、話が自動的に呪いとか凄惨な事件とかに結びついてしまうのと同じくらいに、退屈なことなのだ。(勿論、「現実的」にはそれは切実なことではあるだろうけど。)
ただ、このような冴えた感じは、柴崎友香の小説ではいつものことで、「この小説」独自の妙な面白さの説明にはならない。
●この小説で、「幽霊」はホラー映画の通りに、ホラー的表現の紋切り型そのままで登場する(幽霊の登場の場面でのみ、紋切り型を「あえて」やっているように思える)。にもかかわらず、主人公の反応は、ホラーとは違っている。ここにある妙な落差が面白い。主人公は、幽霊を、前に住んでいた人の気配が残っているだけなのだろうと自然に受け入れている。(だからここでの幽霊は、『その街の今は』に出て来る古い写真のようなものなのだろう。)ただ、本当にまったく恐怖がないのかと言えば、そんなことはないような感じでもある。それはたんに、場所にとりついた記憶(過去)というだけでなく、主人公が過去に見た夢の記憶とも繋がっていて、表面に強くあらわれはしないが、奥深い場所で静かに響くような恐怖があるようにも感じられる。ここで作家は、幽霊を描写しているのではなく、ホラー映画(の技法)を描写しているのかもしれない。ホラー映画を描写しつつ、それが子どものころに夢で見た恐怖とどのように響いているのかということを、小説に書く事で確かめようとしているようにも思われる。
この小説で幽霊は、たんに過去の厚みや過去の実在を示すものというだけではないように思う。それは、体育館のなかのバレーの練習が「見える」ことと、幽霊が「見える」こと、あるいは、スーパーで男の子が「ぶつかってくる」ことと、子どものころ見た夢で女の人が「ぶつかってくる」こととが、重なりつつも、それでも別の次元にあって、ズレているというような、不思議な感触を浮かび上がらせる。この微妙なズレる感触こそが重要なのかもしれない。
●あるいは、この作家においては、やはり「見えること(見かけ)」の不思議さがとても重要なのかもしれない。例えば、この小説の登場人物たちは、チアリーディングのサークルであるにもかかわらず、正式なものでないため、チアの衣装やボンボンなどを使えない。つまりチアに「見えない」。そもそも、それを始めたのがその「見かけ」に惹かれたからなのに。この微妙な「見えなさ」のもどかしさのなかに(そう「見える」ようになりたいという動きのなかに)、登場人物たちはいる。幽霊も、最初は気配だけで目には見えず(というか、見ないようにしている)、しかし「居る」ことは確信されている。それがある日、見えて(見て)しまう。見えた(見てしまった)ことで、幽霊は納得して(あるいは、それを「見た」ことで主人公に変化があって)、幽霊は、その気配さえも消えてしまう。(幽霊の過ぎ去った後に水着のグラビアアイドルのイメージとポテトチップスの袋がポツンと残る、みたいな感じ。)そして、幽霊を可視化するのが、紋切り型のホラー映画の技法であるという微妙さが、また面白い。(そして幽霊が消えた後のシーンで、チアガールのイメージ-写真がどっと溢れる。)
●あるいは場所。主人公にとって幽霊は、前の場所と新しい場所、前の部屋と新しい部屋、前の環境と新しい環境(恋人と別れたばかりである)との間にある違和感や摩擦のなかに現れる。そしてそのギャップ=幽霊を直視することで、その齟齬は調整され、幽霊は消える。ここまで言うと、ちょっと理屈っぽ過ぎるかも。
●だが、この小説で最も重要なのは、そこではないのかもしれない。この小説で普通の意味で最も「いいシーン」は、京王線の電車のなかで、主人公と、同じサークルのオネエキャラの男の子貴雪との間で、何気ない約束が交わされるシーンだと思う。(この約束もまた、「場所」と「見る」ことに関わることなのだった。)そして、主人公がその約束を忘れずにちゃんと果たすのだということが、同じ本に載っている中原昌也長嶋有との合作小説のなで示されているところが、笑えて、ちょっと感動する。