●『帝都大戦』(一瀬隆重)をビデオで。『帝都物語』の続編で、Jホラーと言えばこの人という有名なプロデューサーの唯一の監督作品。ということより、高橋洋のおどろくべき傑作『狂気の海』がこの『帝都大戦』に捧げられているので、観た。
太平洋戦争末期、丹波哲郎が演じるえらいお坊さんが、東京を破壊から守る(戦争を終結させる)ためにヒトラーを呪殺するという話。丹波哲郎は、敵方のチャーチルルーズベルトを呪殺すると言って政府(近衛文麿)の協力を得て、ドイツから強力な電波送信装置を借り受けて(電波に乗せて「呪い」を飛ばすのだ)、実はヒトラーを殺す。この話が、『狂気の海』の「霊的国防」というアイデアの元になっている。とはいえ、映画は、政府対丹波の対立や駆け引きがメインではなく、東京を守ろうとする丹波(や平将門)の側にいる霊能者と、歴史を通じて帝都に踏みにじられた多くの怨念の集合体が人格化した、(東京が戦争によって完璧に破壊されることを願う)嶋田久作が演じる「加藤」という最強の怨霊との対決がメインとなる。だから、設定の構えは大きく歴史的であっても、実際は霊能者対怨霊という基本形の話となっている。ちょっと、初期のクローネンバーグを思わせるような感じの映画だった。『帝都物語』系列の映画ははじめて観たけど、嶋田久作が演じる「加藤」というキャラクターはとても面白いと(今さらだけど)思った。
●ぼくがこの映画で「おっ」と思ったのは、小さな仏像のとらえ方だった。丹波哲郎の側にいる霊能者の加藤昌也と、平将門の末裔であるという霊能者の南果歩が出会う場面で、空襲で焼けてしまった南果歩の家の前で、何か「小さな人」みたいなものが捉えられるカットがあった。あっ、この映画にも「小さい人」が出てくるのか、と思ったら、それは(南果歩がお守りのように持っている)小さな仏像だった。ぼくはその時、何かが腑に落ちたような感じがした。
「小さなおじさん」や「小さな武士」を見る人は多くて、その手の話にとても興味をもっているのだが、その「感じ」が、最後のところでぼくにはどうしても感覚的によく分からない。ぼくは実際に幽霊を見ることはないけど、「幽霊を見る」という感覚はとてもよく分かるように思う。いや、勝手に分かった気になっているだけかもしれないけど、とにかく、分かった気になれる程度には幽霊に親しく、「その感じ」を自分のなかでリアルに構築することが出来る。ぼくが幽霊に惹かれるというのは、そういうことだ。しかし、「小さなおじさん」に関しては、なぜ、霊だか妖精だか分からない何かか、人が小さいサイズに縮小されたイメージとして現れるのか、主にそのサイズというか、スケール感の必然性を、自分の感覚のなかで厳密にはリアルな感触をもって再現−納得することがどうしても出来ない(なんとなくこんな感じなのかなあという、推測的感触はいくつかあるのだが)。ぼくが「小さな人」の話に惹かれるのは、そのスケール感の謎を自分なりの感触で掴みたいということなのだ。
て゜、この映画に出てくる「小さな仏像」というイメージから、ぼくのなかで、霊とか妖精のような何者かの存在の感触−気配と、それが具体性を持つ時に「小さい人」というイメージにおいて現れることとの間の「繋がらなさ」を繋いでくれる、そのとっかかりというか、通路が開けそうな、媒介的イメージとなってくれそうな感じを得たのだった。まあこれは、あくまで「自分の感覚のなか」での納得の問題でしかないのだが。