●実家で観たテレビの画質がすごくて驚いた。特に大画面でも高画質のタイプのものでもないはずなのだが、いつも自分の部屋で観ている古いブラウン管のアナログ式のとはまるで違っていた。NHK舘ひろしの出ている時代劇で、親が観ているのを一緒に観ていたのだが、きっとハイビジョンとかで撮られていて、普通のドラマとかだとまた違うのかもしれないのだけど。
とにかく背景の描写力がすごくて、ロングで撮っている遠くの木の葉の一枚一枚の輪郭がくっきり見えるし、ジグザグした枝の形もシャープに出ている。それらが風でゆらーっと揺れる時、それが画面のチラチラではなく、ちゃんと葉が揺れるチラチラに見える。枯れた雑草の広がる地面のテクスチャーとか、壁の質感とか、そういう背景にあるものが虫眼鏡で見ているみたいにくっきり出ていた。あと、マットな黒がきれいに出る。もう、こうなると、物語とか俳優の演技とかにまったく気が行かなくなって、高解像度のテクスチャーばかりを目で追ってしまう。最後に、舘ひろしの家が燃えるのだが、その炎のクリアーさなど、まるで超高速度カメラで撮ったみたいに、見えすぎるほど見えてしまう感じ。ぼくはあまり視力が良くなくて、普段見えている世界はもっとぼやっとしているので、こういう視覚像には思わず見入ってしまう。過剰な視覚は、脳に対する過剰な刺激で、とにかくそこから目が離せなくなって、釘づけにされてしまう。目に血液が集まって、圧力が高くなる(目が勃起する?)。狭い空間で、割と近い位置から観るので、もしかすると映画館の大きなスクリーンで映像を見るよりも濃厚な映像体験かもしれないと思った。これはもう、ぼくが今まで知っていた「テレビ」というものとは、まったく別の何かなのだと感じた(でも、これはこれで、すぐ慣れちゃうのかもしれないけど)。ぼくはまったくやらないので分からないのだが、ゲームの快楽とかも、その何割かはこのような過剰な視覚刺激によってもたらされるのかも、と思った。
●あと、31日のことだけど、自分の部屋にいてテレビをつけたら矢追純一が出ていて、おっ、と思って少し観た。内容は全然面白くなくて、映像は『バラノーマル・アクティビティ』のパクリみたいなのばかりだったのだが、一つ面白かったのは、宇宙人と幽霊のイメージがごっちゃになっていたところ。シャドー・ピープルとか言われる半透明で人型をしたものが映った映像が流されたのだが、これって普通に考えれば幽霊に近いものだと思う。ただ、人の形はしているけど、特定の誰かの霊だとか、特定の何かしらの呪いだとかいうような、怨念や来歴の固有性の気配が希薄で、匿名性の強くて、なんか人っぽい存在がいる、という感じなのが幽霊から遠いのだろう。宇宙人という形象が、攻撃的であれ友好的であれ、人間的な感情(怨念)とはまったく別次元から到来するものであるとすれば、シャドー・ピープルは宇宙人に近いのかもしれない(幽霊が、個人的であれ共同的であれ、何かしらの記憶-歴史-物語との関係があり、つまりある程度対人的で現世的なのに対し、宇宙人は、超-歴史的、超-文脈的な超越性をもつ)。ただ、宇宙人のような、人間との圧倒的な力の差、あるいは圧倒的な未知性(他者性)のような感触はなくて、害もなければ利もない、よそよそしいけどどこか親しげな、特定の誰かではないけど人の気配はある、というような、ただざわめく何か、という感じなのが面白い。宇宙人とか幽霊とかより、妖精に近い感じなのかも。
矢追純一は、異なる次元の隙間からやってきた、みたいなことを言っていたけど、表象される形象としてのシャドー・ピープルは『電脳コイル』のイリーガルにすごく近い。
これは確かアメリカの話だったと思うけど、日本だと「ちっちゃいおじさん」ということになるのだろう。シャドー・ピープルも、人型だけどサイズが人よりちっちゃいのだった。矢追純一も、ちょっとだけ「ちっちゃいおじさん」の話をしていた。