●海まで散歩。実家から海までは歩いて四十分くらい。ずっと川沿いを下って海まで出て、それから、通っていた高校の前まで砂浜を歩き、高校の脇を抜け、途中まで下校ルートを歩いて(チャリンコ通学だった)、あとは適当にふらふらしながら実家まで戻った。途中、二つの神社でお参りして、墓参りもした。墓参りをするつもりじゃなかったから、お線香を持ってなくて、かわりに祖父の好きだったタバコをお供えしようと思ったのだが、最近ではカードがないと自販機でタバコが買えないのだった。
ここのところ、海を見るのは年に一度正月に実家に帰った時くらいだけど、ぼくはたぶん、海が好きだというより(もちろん好きではあるけど)砂浜が好きなのだと思う。同じような砂地が、見渡す限り単調にずーっと先までつづいていて、遠くまで見渡せ、そこに人がぽつんぽつんといて、それぞれが別々のことをしている、という感じ。様々な声が、遠く近く、様々な方向から聞こえる。見渡せる空間のなかに、別々の時間が散らばっている、というか。
海の色は鉱物的な色だといつも思う。海の青は空が反射して青いというけど、波打ち際で、波が引いた後の湿った砂も見る方向によっては青く反射して見えるので、きっとそれは正しいのだろうと感じる。
そういえば、海までまだ二キロくらいはあるという川べりを歩いている時に、海鳥(たぶんカモメ?)としか思えない鳥がたくさん群れて飛んでいて驚いた。
帰りに、ある程度実家の近くだというところまで戻ってきた時、ある家の門にかかる表札を何の気なしに見て、そこに書かれた文字から、ずっと思い出すこともなかった小学生の時の遠い記憶が不意に蘇って、すごく動揺した。そうだ、確かこの家の前、この場所でのことだったのだ、と(今のアスファルトの道は当時は砂利道だった)。そのあたりは、実家に帰るとよく散歩しているところで、その家の前も何度となく通ったはずなのだが、今まで表札の文字など気にしたこともなかった。しかし、気付いて、改めて見回してみれば、「ここ」であることが間違いないというしるしはいたるところのあるのだった。何故いままで気付かなかったのか(そんなことすっかり忘れていたからなのだが)。
(そこに書かれていたのは小学四年の時に同級生だった人の名字で、つまりその本人はともかく少なくともその一家は三十三年以上経っている今でもまだそこに住んでいるということになる。まず、そのことに動揺した。家は新築っぽかったけど。とはいっても、ぼくの実家だってずっと同じ場所にあるのだが。家は建て直しているけど。)
記憶の奥の奥にしまわれていたものが、表札の文字に貫かれて、いきなり現れてしまったのだった。日射しがあってあたたかく、空には雲一つなくて、ぼんやりといい気分で散歩していたのに、こういうトラップが仕掛けてあるから、「地元」というのは油断がならない。これからは、あのあたりを散歩する時にはどうしても、あそこにはあの家があるということを意識してしまうではないか。
(別に、そんなすごい特別なことがあったわけじゃないです。ただ、身構える暇もなく、いきなり予想外の過去と突き当たってしまったのでうろたえたのでした。現在よりも、過去-記憶の到来の意外性の方に驚くことが多くなるのは年を取ったしるしなのか。)
●書いていて思い出したけど、なんか、何年か前も、まったく同じようなことを書いた記憶があるのだが……。