●神奈川県にあるぼくの実家は川の近くで、河原は重要な遊び場だった。フナとかザリガニを捕るというだけでなく、昆虫をつかまえたり、秘密基地をつくったり、木登りをしたり、凧揚げしたり、エロ本を拾ったりするのも河原だった。その川を下流に下って歩くと三、四十分で海に出る。この距離が近いと言えるのかどうかは微妙だけど、とにかく海まで歩いてはゆけた。高校は、その海沿いにあった。
神奈川で海の近くに住んでいるということは、川は常に海の方向へ(南へ)向かって流れているということだ。多少蛇行している場所があったとしても、全体としては揺らぐことなく海の方向へ向かっている。八王子へ越して来て二十一年になる。実家に二十一歳まで住んで、八王子へ越して四十二歳の現在までもう二十一年になるのだった。河原好きは子供の頃から刷り込まれているので、たびたび河原を散歩する。でも未だ慣れないのは、かなり大きな河川が、必ずしも南へ向かって流れていないことだ。いつも散歩する浅川は、いつも散歩する西八王子−八王子間では西から東に向かって流れている。一時間以上、河原を下流に向かって歩いても、依然として南へと向きをかえる気配がない。二十一年の住んでいながら付近の地図をもっていないのでわからないのだが、おそらくこのままずっと東へ向かって、より大きな、南へ向かう河川と合流するのだろう。
考えてみれば(というか考えるまでもなく)、川が常に南へ向かって流れているということの方が特殊なことなのだ。それは勿論わかっている。でも、実家の近くでは(住宅街のなかのコンクリートで固められた川とか、田んぼの脇にある農業用水や小川とかでなければ)、川の流れている方向が南だという方向感覚が植え付けられてしまっているので、南へ向かっていない川の流れをみながら河原を歩いていると、水の行き先がこころもとなく感じられ、そしてそれを見ながら歩いている自分もまた、方向が失われ、ふわふわと宙に浮いているような気持ちになる。水が海へ向かって流れているという行き先が失われて、自動的に繰り返し再生される映像のように、ただ流れているだけのように感じられてくる。
(いや、以上の記述は根本的に間違っていたのだ。グーグルの地図で追ってみたら、浅川は多摩川に合流後も、当分ずっと東へ流れつづけて、田園調布のあたりでようやく南へ向かうのだが、川崎で再び東へと進路をかえ、もうすぐ海という羽田のあたりで、ようやく南東へ折れて東京湾へ出るのだった。なんと、八王子から浅川−多摩川が向かう東京湾はそもそも南ではなく、東にあるのだった。東京では海は東にある。こんなこと分かり切ったことではなかったか! そもそも、グーグルの小さなフレームで追いかけるのではなく、大きな地図で見ればそんなの一目でわかることではないか。そんなことも意識に上らせることなく、二十一年も浅川を散歩しつづけたというのか。ぼくにとって海は常に南にあり、東にある海など「知って」はいても「海として意識する」ことなどまったくなかったというのか。浅川は南にある海とはつながっていなかったのだ。迂回を重ねた後、相模湾に流れ込むと思い込んでいたあの水は、実はそのまま東へと進んで東京湾へと運ばれていたのだ。逆に言えば、浅川と相模湾とは、ぼくの頭のなかでだけつながっていたのだ。これはもう、自分がいかに東京の地理を知らないのかというような問題ではなく、ぼくにとって世の中がひっくり返るような事実だ。自分の無知と迂闊さに、あきれるのを通り越して、ちょっと感動して笑ってしまう。)
●どうしてぼくは、かたくなに「空から空間を見る」ことを拒否しようとするのか。いや、だけど、「神奈川県にあるぼくの実家は川の近くで…」という言葉を書いている時点で、地図上での神奈川県の位置と海との関係を頭のなかで想定しているはずだから、俯瞰的な視点の拒否が徹底されているというわけでもない。そもそも、俯瞰的な視点を想定しない空間把握などあり得ないのだ(ある程度、頭が勝手に構成してしまう)。必要があれば、普通に地図みるし(グーグル上の多摩川下りは、なんか妙に楽しかった)。ただ、おそらく、自分が動くよりも先にそれを「先取り」したくないという感じがどうしてもあるのだと思う。でも、ちょっとそれに固執しすぎではないかとも(多摩川下りして海が東にあることを「発見」して)思った。
たぶん、ぼくにとって、「散歩をすること」と「地図を見ない」ことはとても密接に絡まっている。地図を見ないということは、頭のなかでも、地図のようなものを(なるべく)構成しない(ようにしたい)、ということなのだ。行き先までの行き方は、俯瞰的な図としてではなく、道順として把握する。空間-図として把握した方が楽だし、上下を逆さまにしたりとか視点を変えたりとかの変換が自在にできる。しかしそれでも、あえて道順として把握する。それはたぶん、ぼくが画家で、一望できてしまうフレームのなかで仕事をするからではないかと思う。空間を目でとらえるのではなく、作業の手順としてとらえる。それによって空間を時間化して、一望できてしまうフレームをいったん見失い、見失うことで、そのフレームの内部空間のなかに「入り込む」ことを可能にする。目以外では入り込むことのできない絵画空間に、手順によって身体ごと入り込むために。なにかしらの行為を成立させるためには、全体が見えていない、ということはとても重要なことなのだ。
●少し前、深夜NHKを音を消してつけっぱなしにしていたら、広大なサバンナのような場所を、牛より少し大きいくらいの動物が大群で移動している様を、かなりの高い位置から、しかもかなりの高画質で捉えた映像が流れていた。音を消しているので、それがどこで、何という動物で、なぜ移動しているのかはわからなかったが、群れの移動が、俯瞰的なポジションから、延々と途切れることのない長回しで、どこまでもどこまでずっと追いかけられていた。その視点(カメラの位置)のあり得なさや異様な鮮明さだけでなく、その映像には、ブレや、移動スピードのムラ、フレームが一瞬対象を見失ってしまうとかいうような、それを「撮影している人間」の関与を感じさせるものが一切なくて、どうやって撮っているのか分からないのだが、こんな映像を、たかだか「人間」でしかない自分が見てしまっていいのだろうかと思うような、人間を超えた「客観」というものの存在を感じさせるような映像だった。あるいは、なぜだか「死」というものを強く想起させる映像だった(それは、空間的に限定された視点=身体が存在しないかのような視点からの映像だったからだろうか)。こんな映像が撮影可能だということは、ほんの二、三十年前には、ほとんどの人にとって想像することも出来なかったのではないだろうか。
しかし、その映像が何に似ているかと言えば、夢に似ていた。ぼくは、夢のなかで、しばしば、このような俯瞰的な視点から、異様に鮮明な光景を見下ろしているときがある。そんな視点からものを見たことがあるはずなどないのに、様々な記憶から、そのような視点を(夢だから「勝手に」)構成することは、人の頭には可能なのだ。ほとんど神の視点を思わせるような、究極の「客観」のような映像が、人の頭が勝手につくりだす(究極の主観とも言える)夢に似ているというのは、なんか「出口なし」っていう感じで、とても怖い。