●青山目黒で「時間の形式、その制作と方法 田中功起作品とテキストから考える」(企画・上妻世海)を観た。
http://aoyamameguro.com/artists/koki-tanaka-by-sekai-kozuma/
正直、田中功起という作家にいままでそれほど関心はなかったし、例えば、似た感じの方向性をもつ作家として、小林耕平(あるいは、小林耕平-神村恵-津田直子という系譜、というか)の方が面白いと思っていた。ただ、今回の展示を観て、田中功起という作家の「フレームに関する無関心さ」をとても新鮮に感じられた。それはメディウムへの無関心でもあるように思う。
例えば、強く反復が意識される作品(「Grace」や「Just on time」など)は、反復される時間というフレームを強く意識させるけど、「Cakes」や「A Haircut by 9 Hairdressers at One」という作品は、フレーム(そしてメディウム)というものがほぼ問題になっていないようにみえる(映像が「作品」なのか出来事の「記録」なのか分からないし、どちらでもいい)。そして、その中間として、「Everything is Everything」のような、「一発ネタを連発する」という感じでフレーム(構造意識というのか)の緩い作品もある。これらの作品が同居可能ということは、おそらく「フレーム(あるいはメディウム)などどうでもいい」、つまり「フレームそのものは別に問題ではない」と考えているということだと思う。
ぼくなどは常に、さまざまなスケール、さまざまな文脈で成立するさまざまなフレーム間を、移動したり、転換したり、置換したりするということを考えてしまうのだけど(つまり、常にフレームを意識してしまうのだけど)、フレームが強く意識されることと、フレームがほとんど意識されないことの間を行き来するというイメージはあまり考えられなかった。フレームのエッジがたつことで成立する意味もあれば、フレームのエッジが溶けてしまうことで成り立つ意味もある。フレームのエッジがたつとよりフォーマルな感じになり、フレームのエッジ溶けるとよりリレーショナルな感じになるが、それはどちらでもいい(というか、どちらもあり)、と。
●あ、違うか。ぼくがここで書いている「フレーム」あるいはメディウムというのはあくまでフォーマルな意味でのフレームであって、そうでないフレームもあり得るということか。「さまざまな文脈」とか言いつつ、ぼくはフォーマルなものにひっぱられ過ぎているということか。上妻世海はステイトメントのテキストで田中の次の発言を引用している。
http://ekrits.jp/2017/08/2353/
《ゴンザレス=トレスは批評的なレヴェルにおいて、いくつかのコードに同時に接続し、ポリフォニックに振る舞っています。このゴンザレス=トレスの方法論的なポリフォニック性は彼の置かれている状況に負う所が多いようにも思えます。先に示した「低速」状況下では批評においてもいくつかの断絶化がおき、それによってゴンザレス=トレスの作品はいくつかの批評言語によって分断されながら評価されることになります。つまり、いくつかの批評コードに彼の作品は回収されるのです。これに関しては彼自身も自覚的であったようですが、彼はそれらの批評を並べ、進行状況を眺める観者を装います。》
ぼくなどはつい、あらゆる「テンプレ批評」から逃れるようなアクロバティックな運動としての作品を夢見てしまうのだけど、そうではなくて、意識的に複数の「テンプレ批評」に捕捉されるような(いわば、予測される他者のメーティスをあらかじめ自身に「複数」埋め込んでおくような)つくりかたで作品をつくり、それによって《いくつかの批評言語によって分断されながら評価される》ような作品とする。ゴンザレス=トレスによる、複数の文脈の結節点となるオブジェクトとしての作品のあり様が、上妻テキストでは「ポリフォニック」と呼ばれている。
田中功起は、作品単位としてではなく、作家単位としてこれを行っていると考えれば、ある作品はフォーマルな「テンプレ批評」文脈のメーティスを盗み、別の作品はリレーショナルアート的な「テンプレ批評」のメーティスを盗み、また別の作品は別の(日常派とか)「テンプレ批評」のメーティスを盗んでいる、といえる。その結果、例えば「フォーマル・テンプレ」傾向の強いぼくが観ると、作品によって、フレームのエッジがたっていたり、溶けていたりするようにみえる、と。でも、作家としての田中はそのどこにもいない。テンプレ化→再(創造的)発見→テンプレ化→再発見という形ですすんでいく運動=時間のなかで、その構造的変化を操作する(テンプレ化=批評、発見=創作のどちらにも属さない)第三の視点として存在する、と。この第三項は決して安定した位置ではなく、構造変換の度に、(テンプレ化と再発見の)包摂-被包摂の関係が逆転する度に、あらたに生まれ直す第三項ということだろう。上妻テキストでは次のように書かれる。
《彼は構造を見透かすだけでなく、構造を変換・操作するマトリクスを手に入れている。それは一人称と二人称の視点を往還することでたどり着く、その両者の視点を見渡せる第三の視点である。》
《そして、この第三の視点は、超越的な視点ではなく、他者の視点を取り込み、自己へ再度折り返される度に変容する視点である。そのことは「作り手」と「観者」という二つの視点だけでなく、「虚構としての現実」と「現実としての虚構」という二つの視点の折り返しを取り入れていることからも分かるだろう。何故なら、片方の二対だけで生成されるマトリクスは、両者の二対で生成させるマトリクスとは質的に異なるものになっている。田中にとっての「創造性」は、いくつかの二対の視点を交差交換し、変換して操作しうる第三の視点に立つこと、そしてその視点を生み出すこと自体によって発揮される。複数の時空間を見渡せる場所からの視点で、再度「作る」こと。それによって、彼は「作品」を生み出しているのである。》
●この展示と、それをめぐる上妻世海のテキストは、上記のようなことを気づかせてくれた。