●昨日の日記で書いた桜金造の怖い話が面白いのは、怪談(一種の幽霊談)でありながらも、「宇宙人好き系」の感触が強く感じられるところだ(「宇宙人好き系」と「幽霊好き系」の違いについては、http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.htmlの、08/05/18を参照されたい)。それは、怪談がホラー映画と違って、あくまで「言葉」で語られるということにも原因があると思われる。
純化して言えば、「幽霊好き系」の作家にとって、世界の様々なあらわれは、そのフェノメナルな多様性がそのまま世界の豊かさ-世界そのものの感触としてあるのだが、「宇宙人好き系」の作家にとって、世界の様々なあらわれは、その背後に「真理」を隠し持っていて、フェノメナルな多様性は常に仮像であり、まやかしである、という感覚がある。「幽霊好き系」の人にとっても、フェノメナルな多様性の背後に表象不可能な「現実界」としての世界があることは感受されているが、それはフェノメナルな多様性の隙間から(あるいは細部の感触から)かすかに聞き取られるしかないのだが、「宇宙人好き系」の人にとっては、その背後にある真実そのものこそが問題とされる傾向がある。逆に言えば、「宇宙人好き系」の人にとって、問題は背後にある隠された真理なのだから、フェノメナルなあらわれはそれ自身は厚みをもたないチープなもので充分であり、世界は常に書き割り的で薄っぺらなものとして感受されている(白と黒のコントラストがあって中間のトーンのない楳図かずおの世界、ナイト・シャマランの書き割り的世界観、荒川修作の作品にみられる厚み(遠近法)-時間の拒絶、等々)。「幽霊好き系」の人の言説には「真理」への希求が希薄であり、フェノメナルな細部への拘泥に陥りがちだが、「宇宙人好き系」の人の言説には、常に「真理」への希求(真理への奉仕)という強い重力が作動しており、それは微妙なニュアンスを強引に体系へと塗りつぶす傾向にある。
(ぼくは自分の本のなかの小林正人論で、あきらかに「宇宙人好き系」の画家であると思われるバーネット・ニューマンの作品を、あたかも「幽霊好き系」であるかのように記述しているのだが、それはあのテキストにおいては有効だと思うものの、もしかすると作品そのものに対して忠実ではなかったかもしれないという思いがある。)
桜金造の怖い話は、その大筋において「幽霊好き系」であるものの、その最も中核的な部分において「宇宙人好き系」的なものへと反転する。この交錯こそがスリリングなのだ。「壁とタンスの隙間」という、あくまで具体的、視覚的なイメージが、「一ミリの幅の女」というフェノメナルな場には位置を持てない「概念」を感覚化する。概念が現実化(というか現象化)するのと同時に、今、目の前に見えている感覚-現象が、そこから僅かにこぼれ落ちて(「向こう側」にある)概念-真理と接続する。つまり、現象と概念の隙間にある、ごく薄い溝にはまりこみ、そこでほとんど「真理」のような、文字通り「厚みのないイメージ」が発生する。
●ところで、明日のレクチャーでは、主に「幽霊好き系」の作品が検討される。「幽霊好き系」の作品のリアリティとは、大雑把に言ってしまえば、「私の脳(私の身体)のメカニズム」という「現実」が露呈されてしまう、ということなのではないかと思う。私の外側にあると思っていたものが、実は私の身体を制御するメカニズムそのものであったという衝撃、あるいはその逆に、私の内側にあると思っていたもの(メカニズム)が、実は私の外側にある環境によって規定されたものでしかなかったという衝撃(リンチの『マルホランド・ドライブ』で、ナオミ・ワッツの幻想の登場人物の全て、ということはこの映画の登場人物の全てということなのだが、が勢揃いする、映画監督の家でのパーティーの場面のような)。内側のものが外からやってきて、外側のものが内からやってくる、この、内と外が裏返る気持ちの悪さ。これを、簡単に自己言及性とかメタなんとかとか言ってしまうと、私の外側に「もう一人の私」がありありとあらわれてしまうような気持ち悪さのリアリティ(これは、「私を見ているもう一人の私」みたいな自意識とはまったく無関係だ)を取り逃がしてしまう。
●明日のレクチャーは、まだ数人は、「ぶらっとやってきちゃった人」を受け入れる余裕があります。阿佐ヶ谷美術専門学校(http://www.asabi.ac.jp/)の研究科621という教室でやります。