●視覚化できないイメージというものがある。例えば、桜金造の怖い話に「一ミリの女」というのがあって、ある男がずっとアパートの部屋にこもりきりで、仕事にも出て来ないから、心配して様子を見に行くと、男はたった一人で部屋にいるのに、「女がさみしがるから部屋から出られない」と言う。「女なんてどこにもいないじゃないか」「そこにいるだろ」よく見ると、壁とタンスの隙間に幅一ミリの女がいて、その女がゆっくりとこっちを向いた、と。この話の面白いところは、幅が一ミリしかない女が「こちらを向く」という、決して具体的には視覚化できないが、しかし強烈な印象を与える「イメージ」だろう。幅一ミリの女というのが既に視覚化困難なのだが、そのほとんど幅のない女が「向きをかえる」のが、何故か目で見て「分かる」ということ。これは、視覚的にはありえないが、しかし、抽象的な「意味」(あるいは「言語」そのもの)というよりもずっと感覚的だ(壁とタンスの隙間というイメージの具体性が、幅一ミリの女という視覚化困難なイメージに一定の具体性への手がかりを与えている)。具体的に思い浮かべることが出来ないからこそ、その「向きをかえる」というたんなる動作が、動作であることを超えてほとんど世界の真理(の啓示)であるかのように刻み込まれる。目から入って来るにもかかわらず、視覚的イメージを媒介とせずに直接的に刻まれる「イメージ」。この直接性、つまり因果関係の、あるいは距離(遠近法)の設定が不可能で、いつのまにか頭に直接刻まれてしまっていること、が、ある恐怖の感覚を生じさせる。何故、それが分かるのか分からないのに「分かってしまう」ことの恐怖。因果関係が崩壊すると、私の世界へのはたらきかけの手段が失われてしまい、世界に対する絶対的な受動を余儀なくされる、という、その恐怖。あるいは、恐怖というより、その絶対的な力に身をまかせる感覚。『世紀の発見』(磯崎憲一郎)を読んでいる時に感じていた感触は、このようなものに近いものなのかもしれない。