●『回転』(ジャック・クレイトン)をDVDで。ホラー映画の古典であり幽霊表象の技法の教科書のような作品。思いの外、ヘンリー・ジェイムスの原作に忠実な映画だった。物語としては、必ずしも忠実ではないのだが、あくまで原作のやろうとしていることを尊重しつつ、映画として発展させたという感じ。この映画の面白いところは、本当に子ども達を悪霊が操っているのか、それとも、女教師が自らの欲望と妄想とを悪霊として子ども達に投影しているだけなのか、どちらか分からないというところにあるだろう。つまり、外傷が、子ども達の側にあるのか、女教師の側にあるのか分からない。原作では、限りなく女教師の妄想であるという雰囲気が濃厚なのだが、映画ではもう少し中立的な感じがする。
そしてそのことが明らかにするのは、「見ること」のなかには「見たことを信じる」ための保証が含まれていないということだ。自分が「見てしまった」ことを信じるためには、「見ること」以外の他の証拠が必要となる。見てしまったということの感覚的な強さ、イメージの強度は、それだけでは「見たこと」の正統性の証にはならない。見たことが正統性を得るためには、それ以外の何かしらの証拠が必要となる(しかし、正当なお墨付きを得たイメージと正統性を得られないイメージとの間に、イメージの経験としての本質的な差異はない)。それはそのまま、映画というメディアの「信用ならなさ」と繋がっている。イメージの強さは、実は言葉によってようやく支えられるのではないか、と。しかし、ある極限的な状況下で、「見ること」が見ること以外の保証を得るすべがない時、人は、自らが経験したイメージの強さや手触りだけを頼りに、その正誤を判断して行動せざるを得ない。おそらく映画が、ある種の「狂信的な人々」を繰り返し描くのには、そのような必然性があるのではないか。『回転』の女教師はあきらかにやばいのだが、そのやばさを笑える者は誰もいない。このやばさは、すべての生きる者に平等に与えられた条件だろう。それ自身以外に正統性を保証するものが何もないイメージを、それ自身の質だけを頼りに判断するにはどうすればいいのかということは、そのまま芸術の本質的な問題であろう。
とはいえ、『回転』は今観るとどうしても古いという感じをぬぐえない。確かに、湖の対岸に黒い衣装の幽霊があらわれる場面は、おおっと驚く。しかし同時に、幽霊をこのような形で登場させているようでは、もうダメなのではないかとも思う。新しいホラー映画が、もうこの『回転』から学ぶべきものはほとんどないようにも思われる。
人が、自分自身を騙すための複雑なメカニズムは常に作動しており、だからこそ、自分の見たものを、必ずしも見たそのままに信じることは出来ないのだが、同時に、そのようなメカニズムは集団的、共同的にも作動しているのだから、それが「自分だけに見えているもの」だからといって、必ずしも間違っているとか妄想だとは言い切れない。問題は、何によってそれを「信じるに足りるもの」とするのか、ということだろう。だから、イメージは常に信仰の問題と切り離せない。