●新宿のツタヤにビデオとDVDを返しにゆくついでにジュンク堂に寄って、もしあったらラカンセミネール七巻『精神分析の倫理』を買おうと決意して部屋を出る。少し前から買おうかどうしようか迷っていたのだけど、上下巻あわせて一万円(税別)という値段は、貧乏人としてはそのように「決意」しなければなかなか買えるものではない。アマゾンとかで買ってもよいのだけど、高い本をネットで買う癖をつけてしまうと、歯止めが効かなくなりそうだし、やはり最終的な決断(それは「決意」とはまた別のものだ)は実物を手に取ってパラパラと中身を眺めて決めたいというのもある。それに、「もしあったら買う」という風に最後のところで偶然に依存することは、「決意」することを助けて(気楽にして)くれる。しかし、それほど厚いわけではないこの本を、どうして上下巻に分けて売らなければならないのか。『精神分析の四基本概念』みたいに、一冊にまとめて五千円でいいじゃんか、と思ってしまう。(岩波がラカンセミネールを『精神分析の四基本概念』以外すべて上下二册に分けて出しているのには何か意味があるのだろうか。)
で、あったので買った。ジュンク堂のキャンペーンか何かで、一万円以上の買い物をすると併設された喫茶店でコーヒーが一杯飲める券がついてきて、さらに、三越の催し物として、五千円で一回、ガラガラと回す福引きが引けるとのことだった。せっかくなので、そこでコーヒーを飲みながら、『精神分析の倫理』の最初の「我々のプログラム」という章だけ読んだ。帰りがけに福引きを引くと、三越の千円分の商品券が当たった。地味な当たり方だけど、本を割引してもらったような気持ちになった。
●引用、メモ。『フロイト=ラカン』(新宮一成)より。
《私が「AはBである」と言うとき、「私がそれを言っている」という事実が背後にある。その事実のため、この「AはBである」というシンプルな確認文さえ、見かけに反して揺れ動く。「AはBである」と私が一人で思っているだけなのか、そうであることを私が願っているのか、あるいは私はむしろ消えてそれが神の意志や科学的真理であることを私が伝えたいのか、言語行為の主体のこれらの欲望が、他者から問われることになるのである。あらゆる発語にこの問いかけがつきまとう。この煩わしさこそが、フロイトが「無意識」の形成物の第一に挙げた「言い間違い」の源になっていることは明らかである。(....)人間の精神が、いやしくも、言語活動がそこから出て来る源、発話する主体の座であるとされるべきであるならば、精神は上に挙げた欲望のどれかを担いつつ発話しているのでなくてはならない。このことによって、どんな確定的な言辞も、欲望から来るある程度の「あやしさ」を持ってよいのであり、どんな欲望も持たない主体は、そもそも発話することすらないはずなのである。》
●今日の天気(06/11/02)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/tenki1102.html