●お知らせ。明日、11月1日付けの東京新聞夕刊に東京ステーションギャラリーでやっている展覧会「生誕100年! 植田正治のつくりかた」のレビューが掲載される予定です。
ガタリの『機械状無意識』と『分裂分析的地図作成法』をちびちび読んでいて、そのための助けという意味もあって、『ドゥルーズの哲学』(山森裕毅)『動きすぎてはいけない』(千葉雅也)『パースの記号学』(米盛裕二)『生物記号論』(川出由己)「現代思想」のガタリ特集などを合わせて読んでいるのだけど、「現代思想」に載っている松本卓也のテキスト(「人はみな妄想する」)が気になった。
ざっくり言えば、「人が言うほどラカンガタリ(ドゥルーズ=ガタリ)は違わない」ということが書いてある。たとえば「アンチ・オイディプス」が批判しているのはあくまで構造主義的な精神分析で、ラカンもまた、それが書かれたのと同じくらいの時期に、自分自身の構造主義的な理論を批判的に更新しようと努力していたのだ、と。実際、ラカンは「アンチ・オイディプス」をかなり評価していた、と。
七十年代のラカンは、初期の象徴界を重視する理論から、対象aを重視する理論へ移行し、さらにガタリらと同じように神経症と精神病の連続性を認めるようにもなった、と。象徴界想像界現実界という三つの輪は、ボロメオの結び目として繋がるのではなく、サントームという第四の輪によって結びつけられていて、サントームが他の輪をどう結びつけているのかによって神経症と精神病の違いが出るのだ、と。そして最終的には、人は基本的にみな精神病であるという結論に至った、と。それは、神経症をスキゾ化するガタリとも近い、と。
(このテキストはラカン派の立場から書かれているので、「アンチ・オイディプス」は≪ラカンの主題によるひとつの変奏曲≫だ、というミレールの言葉が引用されるけど、例えば山森裕毅の本はガタリの視点から書かれているから、ガタリ精神分析をその一部として含むような、もっと大きな射程をもつ「記号論」を構想していた、ということになる。だけど、どちらにしても相手を否定しているわけではない。)
では、精神分析の最前線からみれば、ラカンガタリも「だいたい同じ」とみていいのか。しかしそこに違いもあるという。ラカンにおいては、分析は終点を目指す、終わりのあるものだけど、ガタリドゥルーズ=ガタリ)においては、分析は終わりのないプロセスであるというところが違う、と。ラカンの分析が目指すものは、その人のもつ、構造にも意味にも還元されない固有ななにものかに行き着くことであり、その人が、それ以上還元不能な自らの固有性を受け入れられる(それと折り合いをつけられる)ようにすることが目的なのだ、と。一方、ガタリにおける分析は、分析することがそのまま変化することであり、分析は、ある固着状態にある私が、今とは別のものへと再構成されるための技法でありプロセスであるから、それには終点はないことになる、と。
≪例えば、ラカンにとって、シュレーバーの女性化はパラノイアの究極的な到達点であり、その状態への移行を示すシェーマⅠは「精神病の最終状態の産物」であり、「精神病性プロセスの最後における主体の構造のシェーマ」(ミレール)に他ならない。一方、AO(「アンチ・オイディプス」)では、シュレーバーの女性化は決してプロセスの最終的な状態ではなく、むしろ「準安定的な停止状態」であり、シュレーバーはさまざまなものに生成変化し、永劫回帰する。ならば、両者の差異はプロセスの終わりの有無に他ならない。≫
●こうなると、やっぱずいぶん違うじゃんという感じにもなる。でもこの時、じゃあ、AかBかどちらで行くのかという話になると、どちらにしても行き詰まる感じがある。分析の終点が、ある本質のようなもの(それが「いわゆる本質」とは違うとはいえ)へ行き着くというのでは少し息苦しいし、しかし、絶えず変化する終わりなきプロセスというのは、格好いいけどあまりに取り留めがない。ここでおそらく、AでもBでもないもの、その中間のようなものとして、『動きすぎてはいけない』に書かれていた「有限」「偶然」「切断」が効いてくるのではないかという気もする。変化するためには動きすぎてはいけない、と。