●お知らせ。明日5月15日づけ「東京新聞」夕刊に、新川のミルクイーストでやっている「無条件修復 Pre-Exhibition」についてのレビューが掲載される予定です。
http://milkystorage.tumblr.com/post/116376820496/unconditional-restoration-pre-exhibition
●「現代思想」五月号(特集・精神病理の時代)に載っている鼎談「自閉症スぺクトラムの時代」(内海健・千葉雅也・松本卓也)から、スキゾフレニーと自閉症についての精神医学、精神分析に依拠された発言から、気になった部分をメモとして引用しておく(後で読みやすいように、ぼくの判断で勝手に行替えしています)。
●スキゾフレニーと自閉症における「シンギュラリティ」と「超越論的な審級」のあり方の違い。内海健による発言
《仮に自体愛をシンギュラリティと読み替えるなら、スキゾフレニーの場合、シンギュラリティの途上で、超越論的なものに出会ってしまいます。イメージ的に言えば、カフカの「掟の門前」のようなものでしょうか。田舎から来た男は門の前に辿り着くのですが、門番にとがめられ、死に至るまでそこにとどまります。最後門番は、「この門はお前だけのものだった」という謎めいた言葉を投げかけます。スキゾフレニーはシンギュラリティについてアフィニティをもっていますが、同時にそれは、非常に危険きわまりないものともなります。それゆえ治療者は、このシンギュラリティを関係性のなかでつくることが求められます。奇妙な言い方かもしれませんが、シンギュラーな二者関係を形成するのであり、それができるかどうかが治療者としての資質を示すものでした。》
《スキゾフレニーの場合には、まだ超越論的審級が機能しており、否定神学的な構図が姿を現し、彼らはその空所に立ち現れる磁場に魅入られ、引き寄せられてしまう。》
現実界象徴界がデカップリングした様態というか、シュミットが形式的な法とそれを行使する力を分けたひそみに倣うなら、その力が充満した空白地帯のようなものが開示されてしまうというようなことが起こります。治療関係におけるシンギュラリとは、こうした強い磁場から、いかに離心的な地点まで連れてくるかということに関わるプラクシスです。》
これを受けての松本卓也の発言。
自閉症でなぜシンギュラリティが統合失調症ほど危険なものではなく、むしろある意味安全に出していけるようになっているかというと、彼らは個別化の機能が危機にならないように、超越論的なものとの出会いをある種の仕方で回避することによって、自らのシンギュラリティを出してゆくことができているのかもしれません。》
●スキゾフレニーと自閉症における「享楽の身体への回帰」のあり方の違い(他者と自体愛)。内海健の発言。
《ミレールはラカン読解のなかで「排除」を最終的には「一般化排除」として、神経症と精神病のいずれもが「トーテムとタブー」的な構図の下にあるとしました。つまり、「父の名」が排除されているのは精神病にかぎったわけではなく、両者に共通する構造であると。自閉症スペクトラムが問題となっている現在から振り返ると、この一般化排除によって、精神病も神経症も定型発達なのだと言ったことになります。》
《定型者というのは、自分にめざめる前に、他者に一回出会っているのです。ですから、スキゾフレニーに訪れる他者は、「一度どこかで出会ったはずの他者」といったたたずまいをもっています。全然会ったことなどないはずなのに、何か自分のことをお見通しのやつがいる、というような感じで、まったく無関係な他者ではないのです。》
《それに対して、自閉症の人たちはまさに初めて他者に出会うわけです。図式的に言うなら、「他者に心というものがあったんだ!」というふうな驚き方をする。》
それにつづく、松本卓也の発言。
《彼(フロイト)はそこ(『シュレーバー症例論』)で、スキゾフレニーは、パラノイアよりもっと昔まで、つまり自体愛に近いところまで退行すると言っています。しかし、それでは自閉症とスキゾフレニーを区別できない。すると、フロイトラカン派では自閉症を精神病と同じものとみなしてしまうのではないか、という批判が、ラカン派のなかでも生じてきます。その難点を解決するために、退行の地点によって、ラカン派の言い方で言うと「享楽の回帰」のモードの違いによって、スキゾフレニーと自閉症を差異化しようとしたのがエリック・ローラン等の議論です。》
パラノイアは享楽を大他者の側に見いだすので、シュレーバーのように「大他者(神やフレックシヒ教授)が私を享楽しようとしている」という妄想を構築する。スキゾフレニーは享楽が自分の身体に回帰するので、体の上に享楽がさまざまに現れるようになります。》
《他方、自閉症はそもそも大他者を受け入れていません。自閉症者には、「一者のシニフィアン」(S₁)だけが導入されていますが、彼らはS₁に連鎖していくことになるシニフィアン(S₂)を受け入れることを拒絶します。そして、S₂を拒絶する代わりに、自体愛が刻まれた「一者のシニフィアン」(S₁)をずっと反復して使い、とりわけ身体の「縁」において享楽していく。それは、身体のいわば全体に享楽が回帰してくるスキゾフレニーとは違う享楽のあり方を示していると考えられるわけです。》
《スキゾフレニーの患者さんには、享楽の身体への回帰が実際に症状として出てきます。例えば「陰部を撫で回されている」「意味不明な力が体を操っている」などといった症状です。しかしそれらの症状は、ある程度セクシャルなものになっています。もちろんそれはとても恐ろしい他者性を帯びたものだけれど、性化された側面をもっているのです。》
《他方、自閉症者にみられる享楽は、それとは異なります。例えば、テンプル・グランディンの「ハグマシン」には自閉症者の享楽のあり方の典型例をみてとれます。彼女は、牛を抑え込む器機に自分が入ることで落ち着きを得ることができたと言っています。このように、性化されたあり方から外れたところで、自分の身体をいかにコントロールするかということが、自閉症者における一者の享楽では問題になってくるのです。》
《スキゾフレニーと自閉症は、ともに身体において享楽する体制が全面に出てくる病態ではありますが、両者の享楽の体制は異なるのだという発見をすることによって、自体愛の革新性を取り出すことができた、というわけです。》