●「現代思想」に載っている鼎談「自閉症スペクトラムの時代」(内海健・千葉雅也・松本卓也)を読んでいて樫村晴香をはじめて読んだ時のことを少し思い出した。
それとはまた別の話として、ぼくが精神分析に惹かれるのは、その非社会的な性格によるのかなあと思った。例えば、この鼎談では、ヒューム、デカルトフッサールなどの哲学者の名前が挙がっているのだけど、それらの仕事があくまで症状として語られている。つまり、哲学史という(共有された)舞台の上で行為するプレイヤーとしてではなく、それぞれが固有にもつ症状であり症例であるようなものとして捉えられる。そのような捉え方が、ぼくにはしっくり腑に落ちるように感じられる。
ぼくには、社会的なものごとに対する関心が基本的にない。しかし、あきらかに目に見えて、だんだん社会が良くない方向に進んでいるとき、基本的に社会に興味のない者でも、「いくらなんでもこれはまずいんじゃないか」という形で、社会的な事柄や言説に巻込まれてく。
しかしそれは罠ではないか、と考えていた。だけど、「罠」という言葉では、賢明に立ち振る舞えば避けられるというニュアンスがあり、しかしそれは基本的に無理なので、既に適当ではないかもしれない。だから、罠というより、不幸な運命という言い方の方がいいかもしれない。しかしその不幸な運命にも、多少は抗いたいと思う、
ここで言う、精神分析の「非社会性」とは、以下の引用で語られるように、我々一人一人の存在があらかじめ既に社会を含んでいるからこそ確保されるべきものなのだと思う。
以下の引用は、この鼎談における内海健によるもの。ここで言われている《社会復帰》の「社会」と、《社会と直に接続している》の「社会」の、微妙な意味の違い。
《例えばスキゾフレニー臨床だと、先ほど言ったように「関係のシンギュラリティ」をつくれるかどうか、これが治療者の資質として求められます。そのなかでは、患者以上に治療者のほうが相手に身を委ねているところがあります。(…)スキゾフレニーの人とのあいだには、屈託のない時間が流れます。そうしたシンギュラリティをつくるには、ちょっとした勇気はいりますが、それほど難しいことではありません。
ただ、「で、その後どうするの?」という段階で、社会とのかかわりが問題となるとき、何か彼らを裏切るような気持ちになります。千葉さんの言葉で言うなら、「非意味的切断」によって治療関係をつくってきたのに、今度は「意味的切断」をしろと言わなければならない。(…)自分が担うのは「関係のシンギュラリティ」をつくること、ある安心できるトポスをつくっておくことですが、しかし社会復帰は社会復帰でやるしかない。》
《スキゾフレニーの場合には、直に社会と接続してしまうのです。例えば自分の考えを人に知られているとか、人から考えが入ってくるとか。それらは症状に登録されてしまうのだけれど、しかし事実なんです。事実、社会とはそういうものなんです。それに対してわれわれはどういうわけかシャッターを下ろせるのだけれど、彼らは下ろせない。そういう訴えは大体のところ聞き届けられず、乱暴に言えば「病気だから薬ね」となる。薬はある程度は効くのだからそれはよいとしても、訴えは全然聞き届けられていないのです。それだけ社会からのベクトルが直に入ってくるからこそ、関係のシンギュラリティをつくることに意味があるのです。ただ、そこでいったん安全保障感を得て、その後社会に戻すというとき、治療者として葛藤が起きるのです。》
(「社会的」であるためには、社会との直な接続ではなく、社会に対してシャッターを下ろせる状態である必要がある、と。)
●同じ号のもう一つの鼎談(精神病理と精神分析の閾)で藤山直樹が、精神分析を行うことはひとつの文化に参加することなのだ、というようなことを言っている。(精神分析に限らず)「文化」というものがもつ非社会性(アジール的なトポスであること)を、非社会的な言葉で考える必要があるのだと追う。