●昨日の日記を更新した後、テレビをつけてぼんやり観ながら食事をしていた。関根麻理が出ていて、アイスランドを旅行した時の話をしていた。現地の美術館で、ドイツの人でアイスランドに移り住んで何十年というおばさんにたまたま出会って、親しくなり、その流れで家に招かれた、と。そして、そのおばさんとの別れ際に、「あなたの人生が素敵なものでありますように」と言われ、それを聞いた時、関根麻理は、「ああ、私の人生はきっと大丈夫なんだ」と思ったという。
そのおばさんにしてみれば、その言葉はほとんど自動的に口から出て来る決まり文句のようなものでしかないのかも知れない。しかし、旅行先でたまたま知り合った人に言われた(聞き慣れない)言葉を、そのまま字義通りに受け取って、自分の人生を「大丈夫」だと感じるという経験に、とても心を動かされた。それはまるで、磯崎憲一郎の小説のように感動的な話だと思う。そのおばさんにとっては何ということのない、社交の場で日常的に使われる、無意識に出る言葉でしかなかったとしても、その言葉は、今まで、そのような言葉をずっと使ってきた、過去に存在した多くの人たちの気持ちが、配慮の形式が、言葉に乗って自動的に時間を超えて伝わり、運ばれてきたものであり、遠いところからやったきた人物が、遠い土地で偶然に出会った人の口からその言葉を聞いた時に、その言葉がわざわざ自分のところに向こうからやって来てくれたように感じられ(あるいは、その言葉に出会うために自分はここまでやって来たかのように感じられ)、その言葉に込められてきたものの厚みがそこでふわっと溶けて、まるでその言葉それ自身から、あるいはその言葉を繰り返し口にしてきた無数の人たちから、そのような大きなものから、自分の人生が見守られているような感覚として、強く作用した、ということだろうと思う(勿論、その背景に、アイスランドの風景があってこそ、その言葉が作用したのだろうけど)。
だからそれは、たまたまそのおばさんの口から出た言葉ではあるが、そのような言葉を、日常的に使いつづけ、伝えてきた、過去に生きた多くの人の言葉でもあるだろう。それは、その言葉が口にされた環境と混じり合った言葉ということでもあると思う。多くの人たちの生活が時間をかけて固めた「決まり文句」が、その場の文脈や空気を超えて、字義通りに捉えられる時、隠された言葉の力が解凍され、浮上する。言葉の力というのは、ほとんどそういうところにしかない、と言っても良いのではないだろうか。