●ぼくの作品で重要なのは、フレームのなかにブランクがあること。空白、断層、穴、そういうものが画面のなかにあって、滑らかな空間になっていないこと。空間は切断され、あるいは捩じれている。ブランクは余白ではない。余白は、空間的な連続性が確保されたなかで、そこに「何もない」ということだが、ブランクは、そもそも空間として不連続なのだ。いくつもの、線や色彩や形態が、ブランクを挟んで配置される。しかし、それらが、ただ、不連続で、バラバラならば、そこには何も起こらない。不連続でありながら、そこに、何かしらのかたちや関係性や秩序が(つまり、繋がりが)ブランクを飛び越えて成立しそうな予感、雰囲気、ポテンシャルが感じられること。そのような状態である時に、それを観る人の頭のなかで、思考や感覚が動きだすのだと思う。ブランクを飛び越すのは「見る」という行為であり、それは見る人の「頭のなか」での出来事だ。
●作品は、けっきょく、それを観る(受け取る)人の頭のなかにしか着地点を見出せない。物質として頭の外ある作品は、その「頭のなかの出来事」を誘発する装置である。しかしこれは、最終的には「観る人の自由」に任せる、ということではない。作品を「自由に観る」ことなど不可能だ。(すぐれた)作品は、それを観る人にある種の「不安」のようなものを与える。不安という言葉を「希望」と置き換えても、おそらくかわらない。それ自体としては、ネガティブでもポジティブでもない、どちらにも転び得る、何かを駆動させようとする感覚。波紋の起点になるようなざわめき。そしてその不安-希望に促され、刺激され、導かれ、もっと言えば強制されるようにして、頭のなかが激しく振動し、駆動しはじめる。その時に浮上する思考や感覚は、その人のものであると同時に作品のものでもある。その人が作品を媒介として思考しているのか、それとも、作品がそれを観る人を媒介として思考しているのか、どちらかわからない。私が作品を感覚するのか、それとも、作品によって私が感覚させられるのか。もっと言えば、作品の経験とは、私が作品を観た経験なのか、作品が私を観た経験なのか。それは実は、頭の中と頭の外は、どこかで一捻りして重なって(繋がって)いる、ということなのかもしれないのだ。作品というものの強さ-リアリティは、そのような、ほとんどデンパ的妄想に、強い手触りを、もっと言えば確信-信仰を、与える。
●作品が、けっきょく、それを観る(受け取る)人の頭のなかにしか着地点を見出せないという事実が、実は、作品が内側に抱える最大のブランクであるかもしれない。完璧に計算し尽くし、一分の隙もなく完璧に仕立て上げられた作品でも、それが人にその通りに受け取られるという保証はどこにもない。作品はテレパシーではない。私には、あなたの目で見て、あなたの頭で考えることは出来ない。しかし、そこにブランクがあるからこそ、作品はある種の「信仰」を、あるいは「約束(信頼)」を、その内側に宿すことが可能になる。信仰-イメージとすら書きたい気になる。テレパシーでは、破られることもあり得るというところまで含めた「約束(信頼)」は成り立たない。