●「好き/嫌い」について口にするのはどこか恥ずかしい、というか、はしたないことのように思える。でも、はしたなさを回避することが必ずしも良いことではないから、あえて「私は○○が好きだ」と言うことには意味があると思う。でも、「私は○○が嫌いだ」と言う時、人は一体何を言おうとしているのだろうか。時々人は誇らしげに「私は○○が嫌いだ」と宣言するけど、そこにどのような意味があるのだろうか。
●ここで問題になるのは、あくまで「嫌いだ」と口にする、言葉にすることであって、そう感じることそのものについてではない。例えば、「私はニンジンが嫌いだ」という意味の言葉を言う時、実際は「せっかくあなたが作ってくれたけどニンジンを食べられなくてもうしわけない」という気持ちで言うのではないか。これは、自分の好みや態度やスタイルが、周りの流れと一定の摩擦を生みそうな時に口にされる。「今度、野球観にいこうよ」「ごめん、オレ野球に興味ないんだ」という会話に近い。だから、積極的に「主張」されるわけではない。聞かれてもいないのに「オレはあいつが大嫌いだ」と言う事と、「今度はあいつも誘おうよ」と言われて「ごめん、オレあいつちょっと苦手なんだ」と言うことは違う。問題がなければ、人は黙ってニンジンの入っていないメニューを選ぶだろう。ニンジンが嫌いなことは別に恥じるべきことではないが、特に誇って主張することでもない。ここで取り上げるのは、聞かれてもいないのに積極的に「嫌い」と言う(書く)行為についてだ。
●人が「私は○○が嫌いだ」と言う時の意図でもっとも考えられるのは、「嫌い」を共有することで生じる親近感を生むため、あるいは、相手が「同類」であるか見極めるためということがあろう。「○○って嫌だよねえ」「ねー」みたいな。「夫婦は、好きを共有するより嫌いを共有する方が上手くゆく」と言う人もいる。確かに、「嫌い」の一致は、自分と「同じ匂い」の人を見分けるときの重要な指標となるだろうし、人と人との距離を縮めるのにとても有効であろう。しかしこの時、「嫌い」という言葉は、仲間内だけでひっそりと、秘密のようにささやき合われるべきものであって(そこに仲間しかいなければ大声で言われるだろうが、そういうことではなく)、決して声高に宣言されるべきものではない。
●「声高に」ということで思いつくのは、政治的なけん制のようなことだろう。○○そのものや、巷に蔓延する○○的なもの、○○を支持する人たち、に対するけん制として「オレは○○が嫌いだ」と言う(公言する)。でもその時、そのような発言が効果をもつと期待できるのは、「嫌いだ」と発語する人自身が、ある一定の支持を既に持ち、一定の権力や影響力を持っているのだという自意識があるからだろう。「俺様があいつのことを嫌いなのをお前ら分かっとけよ」、「あいつを支持するということはオレにとって好印象ではないことを憶えとけよ」的な。それは一種の自己主張だが、自分の意見(嫌い)を主張するというより、自分の存在(立場、あるいは力)を主張している感じになる。だから、ここには幼稚な自己中心性があり、さらに言えば、「俺様が嫌いなのだからあいつは悪なのだ」的なニュアンスさえただよう。
当然だが、「嫌い」と「間違っている(正/誤)」、「悪い(善/悪)」は違う。一定の論拠を示したうえで「○○は間違っている」と口にすることは、ここでは問題にされていない(「嫌い」とは一言も言わずに一見冷静、客観的に「間違い」を言いつのる言葉の裏にある「嫌い」もあるのだが、ここでは「嫌い」という感情ではなく発語が問題であるのでそこには触れない)。にもかかわらず、「嫌いだ」と口にする時、人は、無意識のうちに自らを絶対的に優位な判定者の位置に置く。あるいは、実はこちらの場合の方がずっと多いと思うのだが、「置くべきだ(置け)」と要求している。つまり、置かれてしかるべきなのに、不当にも置かれていない、と感じている。この「不当」感こそが強く出る。ここで「嫌い」という発語は「私は(嫌いな誰かに比べ)不当に尊重されていない」という感情を意味する。とはいえ、このような「私は自分の位置が不当だと感じている」という感情の表明は、社会的に一定の意味や意義があるとは思う。
つまり「嫌いだ」という公言は、実際に一定の力のある人が口にするのと、そうでない人が口にするのでは、「社会的」な意味が違ってくる。
●上記の二つの中間に、一般的に「毒舌」と言われるものがあるだろう。それは一見、「俺様の絶対性」を主張しているようにみえて、実は、「嫌いの共有」を瞬間的に成立させることによってその場全体の空気を「自分の仲間内」に引き入れてしまおうという行為(技芸)だ。これはリスクが大きく、下手を打てば「嫌い」と言うことで「嫌われて」孤立することになるが、成功すればその効果は絶大であろう。だから、「毒を吐く」者は誰よりも空気に対して敏感で繊細でなければならないことになる。
既に「身内」となって毒舌を聞いている側はその発言によってすっきりする(カタルシスがあり、帰属意識が満足される)が、毒を吐いている側はまったくすっきりしないだろう(成功するかどうかいつもビビッているだろう)。毒舌には、権威への反抗や、固定化した「空気」の刷新という積極的な意味もあるが、同時に「いじめ」と同等の行為と裏表でもあり、そこには様々に入り組んだ力関係への配慮が必要で、そのような意味でもリスクが大きく、毒舌の成功は困難であろう。だからこそ、「成功した毒舌」はすばらしいカタルシスをもたらすということもある。
●でも、それらとは別に、ついつい出てしまうということはあろう。あるいは、「嫌いだ」「嫌だ」と言わなければ気が済まないような強い感情に襲われて、矢も盾もたまらず口にしてしまうということはある。「あーっ、嫌だ」「ほんとに大嫌い」という風に。それは、誰に向かって言われているのでもない。痒いところを掻き、痛いところをおさえるのと同じような行為だ。あるいは、泣いてしまうのと同じだ。この最後の場合にのみ、共感できる。
●あと、いわゆる「口が悪い人」というのもいる。技芸としての毒舌とは違って、ナチュラルに「口が悪い」場合をどう考えればよいのか。ぼく個人として、ナチュラルに口が悪い人に対する嫌悪感や違和感はほとんどないので、この点についてはあまり考えなかったが、「ズケズケものを言う」ことのさわやかさと、わざわざ「嫌いだ」ということで生じる濁りとは、本質的にまったく違うことなのだと思う。「嫌いだ」という発語には自己中心的な政治性が貼りついているが、「ズケズケものを言う」という行為からは、真逆の無私的な感覚が生まれる。
●今日の日記の全体が、ネットでたまたま目にしてしまった、「嫌いだ」という語の使用への強い嫌悪から生まれた。それをみて、ここで事のついでみたいに(言い逃げするみたいに)「○○が嫌いだ」なんてわざわざ書く必要あるの?、と思ったのだ。そしてなぜ、ぼくはこんなにもそれを「嫌だ」と感じてしまうのか、と思ったので分析してみた(「古谷が嫌いだ」という文を読んだわけではないです)。