●ゆーじん画廊の岡崎乾二郎展では、0号か3号くらいのサイズ(だと思う)の小さい作品が新鮮で面白かった。岡崎氏のペインティングが、(ぼくも含めて)普通に「絵画」を当然の前提として制作しているような人の作品と違っているところは、筆触が、フレームのなかで、そして、支持体の上で、つまりそれらと不可分に生成されるのではなく、フレームの外で、支持体とは離れた場所で発生した筆触が、後からフレーム上に配置される、というような「感じ」(これはあくまで「感じ」なのだが)で組織されているところだと思う。例えば、マティスの切り紙絵では、まず色のついた紙が(普通に空間のなかで)ある形に切り取られ、それがその後に支持体の上に配置される、のと同じように。これはつまり、ある形態なり筆触なりが生成するときに前提となる(地としての)空間が、絵画のフレーム(キャンバス)ではなく、現実の空間である、ということだと思う。あるいは、粘土で塑像する彫刻家が、作品全体のサイズをあらかじめ想定しないうちに、いきなり細部の形態をつくりはじめてしまう、みたいな。(しかし実際には、岡崎氏の筆触も支持体の上で行われる一回性の身振りによって刻まれるのだから、フレームの内部で生成されるのだけど、岡崎氏の筆触をつくる身振りは、振り付けられたダンサーの身振りのように、その都度一回的であると同時に、何度も反復されるものである、ということによって、フレームに規定されない、そこから切り離されたものにも、成りうる。)この違いは、普通に「絵」を描き、観るときの「趣味」からすると、ちょっと受け入れがたいところがあるかもしれない。普通に「絵」をみることに慣れている人には、地としてあるべき規定的な空間が「繋がっていない」ように見えるのだ。しかし岡崎氏のペインティングの面白さは、そこにこそ(つまり規定的なフレームがあらかじめ前提にされていないところにこそ)あるのだが。そのことを人に理解してもらうためにこそ、『ルネサンス・経験の条件』のような本が書かれなければならなかったのかもしれない。ぼく自身、この「感じ」を理解するまで、少し時間がかかった。(岡崎氏が本格的にペインティングを発表しはじめたのは91年ころからだったと記憶しているが、そのころに観たときは、何をやろうとしているのかよく分らなかった。)
大きめの作品は、筆触がフレーム全体を覆うことはなくて、綿で出来た地の多くの部分を残しているので、絵の具による筆触と同等なくらい、地としてある綿の質感が強く見えてくる。そして、その隣に置かれる小さいサイズの作品では、筆触がフレームを覆ってしまうほどで(しかし完全に覆ってしまうことはないのだが)、しかも、筆触の大きさやそこにのせられた絵の具の厚み(量)は、そのサイズのフレームが支えうる許容量を超えてしまっているようにみえる。つまり、フレームに比べて、絵の具の質感と筆触が過剰に溢れるように前に出て来ていて、ほとんど筆触のみが何ものにも支えられずに宙空からせり出しているようにさえ見える。このような二枚が並べて展示されることで、いっそう、フレームに対する筆触の自律性というか、筆触は仮のフレームに仮留めされているだけだという感じ、つまり言い換えれば、今観えている「作品」の状態が、今、見えているものとして充実したものであるのと同時に(勿論、今見えているものが充実したものでなければ何の意味もない)、他でもありえた無数の可能性のうちの一つでしかない(他の可能性への広がりも感じられる)、というものに見えるという「感じ」が、明確になっているように思うのだ。以前のような、同一サイズのフレームの二幅対の作品よりも、サイズも違うし、はっきりと対応関係にある筆触があるわけではない二枚(あるいはそれ以上)が、たまたま並べられた、という方が、その「感じ」がずっと明確に見えるように、ぼくは思う。
●ただ、作品の「良さ」という点では、前回の南天子画廊で展示された作品があまりに素晴らしかったため、それに比べるとちょっと、という感じではあったけど。