●深夜アニメ。『京騒戯画』と『境界の彼方』はどちらも回を追うごとにどんどんおもしろくなってくる。
『京騒戯画』は、最初は訳分からない感じでぶっ飛ばしていて「おーっ」と思ったけど設定や物語がみえてくるに従ってしょぼい感じになってくる、のではないかという危惧があったのだけど、今のところまったくそんな気配はない。雑多なイメージがこれでもかとぶちまけられているのだけど、それだけでなくその様々なイメージ間の関係が考えられ練られていて、回を追うごとにそれが見えてくるようになっている。すごく「頭のいい人がつくってる」感がある。
ちょっと『フリクリ』を想起させる感じもある。だけど、『フリクリ』とか「エヴァ」とかは基本的に(ある意味、制御不能な)表現の強度こそが作品を引っ張ってゆく感じだけど、「京騒…」では、ぶっ飛ばしているように見える表現も実は知的に操作されている感じが強くあって、基本的には理知的な構築物としてつくられている気がする。だから、個々のイメージそれ自体の力が作品を引っ張るというより、計算され配置された細部の密度が一定の閾値を越えることで押し出すような力が生まれているような感じ。
(例えば『フリクリ』が、細部の表現の力が作品全体を引っ張っているようなつくりだとすると、一見似ているようにもみえる『キルラキル』は逆に、全体のコンセプトが先にあって、そこからあの過剰な細部の様式が導きだされているような感じで、前者がボトムアップ的で後者がトップダウン的だとすると---こういう言い方はそもそもとても乱暴なのだけど---『京騒戯画』はそのどちらとも違っていて、その中間というか、細部と細部、イメージとイメージとの関係を煮詰めてゆくことで全体がかたちづくられるような感じなのではないかと思われる。)
「京騒…」から感じられるのが才能と頭の良さだとしたら、『境界の彼方』から感じられるのは上手さや洗練だと思う。作画、演出、キャラの造形とその配置、話の展開のさせ方、デジタルなどの視覚的技術とその見せ方、どれをとっても、ほかのアニメ作品から頭一つ抜けているように思う。それは、今までの京アニの作品と比べてもそうではないかと思う。でも、この上手さ、あるいは洗練はとても異様なものだとも言える。
日本のアニメはある意味ガラパゴスと言えると思うのだけど(例えばピクサーのつくるような3Dアニメが国際標準だととりあえずは言えるだろ)、そのようなガラパゴス的な場でまったく独自の進化と洗練をとげて、ほかに比べるものもないようなユニークな---異様な---姿のものが日々育ちつけている(昨日の日記でもちょっと書いたけど、それはまさにアバンギャルドとキッチュとの緊張関係のない場においてはじめて可能な、抑圧を欠いた美の過剰な繁殖なのだと思う)。
それは一方で、今まで誰も見た事のないような奇形的で異様なイメージを生み出しつつも、そこで生み出されたイメージが反復的に使用されることである程度の淘汰が起こり、そして独自の美的な完成度や洗練が生じる。それは確かに、凸凹のあるいびつに尖った石が流れのなかで丸くなるようなことではあるのだけど、しかし丸くなったとは言えもともとの石の成分の異様さはそのまま残っている。そのような洗練を体現しているのが京アニなのではないか。そこには、ガラパゴス的なローカルな特異性と、驚くようなクオリティの高さとの両立が実現されているように思う。そしてその異様さ(ユニークさ)とクオリティによって、現代のメディア的な環境のなかで、ガラパゴスで生まれた種が世界中に拡散されてゆく。それはまるで、どこかの秘境で生まれた新種のウイルスが渡り鳥によってひろがってゆくような感じなのではないか、と。