2024/01/13

⚫︎『クレイジークルーズ』をNetflixで。坂元裕二脚本ということで観てみたが、特にどうということのない(やや制作費多めの)普通のテレビドラマだった。坂元裕二的技巧がみられなくはないが、全体に薄味という感じ。経済格差を戯画的に扱うのならば、もっとえげつなくやってもてもいいのではないか。

あらゆるカップルが相手を交換するなかで(安田顕高岡早紀カップルも「娘の父親は別人だった」ことで相手を交換している)、唯一、屈折してニヒリスティックな子供のみが、愛の対象を全うするという話でもあり、被害者は二度殺されるというトリックの話でもある。

ここでは、一度目の殺人者に対して二度目の殺人者(真犯人)がいる、という犯人にかんするどんでん返しよりも、むしろ、被害者の「意味」が変わるということの方が重要だろう。一度目の殺人において、被害者は、欲深い息子夫婦に殺された気の毒な老人だが、二度目の殺人においては、殺されても自業自得なクソ野郎へと転落する。クソ息子夫婦にではなく、殺されるべき相手から殺された、と。

(マジシャンが、吉沢亮宮崎あおいに対してはなぜかマジックを失敗するという謎めいた細部が、最後に「なるほど」となるのは味わい深い。)

この作品で、主演の吉沢亮宮崎あおいの恋愛の進行は紋切り型めいていて(物語の構造上の要請でしかないように見える)、さらに、あらゆる要素が戯画的に薄っぺらである豪華クルーズ船の旅において、唯一の密度のある感情が、使用人の息子とお嬢様の心が通じていることではないか。

(映画プロデューサーと俳優の不倫カップル、ヤクザの親分の娘と下っ端ヤクザの駆け落ちカップル、という脇役たちの設定は、ちょっと安易なのではないかと感じた。特に、親分の娘とヤクザの駆け落ちカップルって、今どきそんな設定ある?、と思った。被害者から寵愛されている使用人のキャラも、なんか曖昧でぼやっとしたままだった。このような細部の薄っぺらさは、おそらく意図的でもあって、もっと技巧をギチギチに詰めていけば、戯画的効果となって、逆にオモシロ要素になるのだろう。あえての紋切り型なのだろうけど、その「あえて」があんまり見えてこない感じ。)

(金持ちはみんな薄っぺらか悪人で、医者の娘はその犠牲者で、金持ちでない吉沢亮宮崎あおいと使用人の子供(と、真犯人)はまともだ、という図式も単純に思う。)

こういうシチュエーションコメディは、洗練されまくった古典がたくさんあるので、観る側の要求もどうしても高くなってしまう。