2024/01/12

⚫︎トートロジーだが、持続可能性を超えた多様性は持続可能ではない(たとえば、カンブリア紀の進化の大爆発)。だが過激な哲学は、このこと自体に異を唱える。持続可能ではない(それどころか出来可能ですらない)多様性こそが肯定されるべきだ、と。「この世界」では決して持続可能ではない何ものかのイメージを生み出し存続させようとすることが芸術だ、とも言えるかもしれない。

(破滅する自由、破滅する権利もある。仮に持続可能でないとしても、今のままであり続ける自由・権利がある。)

ただ政治的、あるいは共同的には、とりあえず「持続可能性を超えた多様性は持続可能ではない」というトートロジーを受け入れないと、多くの人が不幸になる。だがそれは、持続可能である限り多様性は最大限に肯定されるべきであるということでもある。ここで重要なのは、効率性ではなく持続可能性だ。持続可能であれば効率的である必要はない。共同体は、持続可能と考えられるならば効率性を捨てて多様性の肯定を取るべきである。また、どうすれば多様なまま持続可能であるか最大限に考えられなければならないだろう。

(仮に、これを共同体の最低限の倫理と考えることができる。)

持続可能性は環境と相関的であり、環境から自律した持続可能性はない。ある「わたし」は、ある環境では持続可能でないが、別の環境でなら持続可能である、ということがある。だから「自分探しの旅(=「わたし」が持続可能である環境探しの旅)」には大きな意味がある。

今ある環境で持続可能であるように「わたし」を変化させるという手もあるが、「わたし」が今のままで持続可能であるように環境を変えるように働きかける、という手もある。前者(わたし)と後者(環境)とを、どちらともをちょっとずつ変えて「わたし」を持続可能にするという手もある。

(地球という環境下では持続可能と考えられなくても、宇宙にまで視野を広げれば可能になるかもしれない。)

(ただ「この限定され強制された環境から動く術がまったくない」という環境下に生まれることもある。)

⚫︎「持続可能性」とは、事前に真偽を確定できるような判断ではなく、どこまで解像度を上げたとしても依然として間違え得る予測的判断でありつづける(「可能性」である)ことは忘れてはならない。この点を忘れると、規範的権力のように恣意的かつ強権的に使用される概念になってしまう(既になっている)。

(ここでもあえて使用しているが「持続可能性である/ない」という言い方が良くなくて「持続可能性が高い/低い」という度合いを示す言い方にすべきだろう。)

今まで持続可能でないと考えられてきたことが、技術的な環境変化のよって可能になることもあるし、常識や考え方や方法を変えることで「持続可能だと考えることができる」ようになることもある(逆もある)。こんなやり方がいつまでも続くと思っているのか、と非難されていても、案外ずるずると続いてしまったということもあるし、確実に持続可能だと思っていたが違った、ということもある。

(実際のところは生きてみないとわからない。カンブリア紀の大爆発も結果としてダメだったということで、事前に持続可能性について確定的に判断できるわけではない。過去の出来事は判断のため材料の一つにはなるが。)