08/04/05

●『回想のヴィトゲンシュタイン』(岡崎乾二郎)について、もうちょっとだけ。上映後、作家自身が、この映画の元ネタのひとつに「オズの魔法使い」があると明かしていたが、それはとても納得がいくことだ。ヴィトゲンシュタインのかぶり物や、様々なバリエーションで出てくる鉄腕アトムなど、本来「心」のないものに、我々はなぜこんなに過剰に感情を感じて(付与して)しまうのか、ということが、とても大きな関心としてあるように思われた。我々には、犬に感情があるのはすぐに分かるし、他人に痛みがあることも分かる。なぜ分かるのか、あるいは、本当にそう言ってよいのか、について、哲学的に探求することはほとんど意味がないと思う。(科学的になら意味があるかもしれないが。)機械に「心」があると言えるのか、ということとも違うと思う。そうではなく、ここでの関心は、心がないと分かっているものに、なぜかこちら(観る側)から「感情」を貼付けてしまうという、向こう側ではなく、こちら側で発生してしまう、ある感情の過剰なのだと思う。「なぜ海岸はいつも、海の近くにあるのか」という、いかにも分析哲学っぽいギャグ(言葉)は、港にぽつんと座っている、(「心」のない、かぶり物の)「ヴィトゲンシュタインくん」の物悲しい表情(無表情)の映像とセットになることで、はじめて強く印象づけられる。この2つのものの間(落差)にある、みえない過剰こそが、問題とされている。
(追記)●この映画には、直接撮影された人間の「顔」が出てこない。ビデオ映像を再撮影した(引用マークのついた)「有名人」としてのバロウズ原節子、写真図版のエイゼンシュテインなどは出て来るし、アニメのキャラクターとして、ヴィトゲンシュタインやアトムの顔は出て来るし、人形のアトム、かぶり物のヴィトゲンシュタインも顔をもつが、人の表情や感情をもっとも直接的に伝える生身の「顔」がない。顔が遮断されていることで、かえって、こちら側(観客)の「感情を読み取ろう(付与しよう)」という能動性が強く喚起され、作動させられることになる。
●あと、やっぱりこの映画は(デジタル変換されているとはいうえ元々は)八ミリ映画で、例えば、蓮の葉の緑や、そこにたまる水滴の表情の美しさなどは、八ミリフィルムでしか捉えられない質をもつもので、ぼくはどうしても、こういうベタなうつくしさに一番惹かれてしまう。